雑穀栽培の古今東西
<雑穀栽培の古今東西>
日本の主食といえばコメというのは戦後からしばらく経ってからの話であって、江戸時代の百姓たちの主食はコメよりも雑穀というべきだろう。コメは主に年貢のために栽培されていて、貴族や侍を除けば、一部の商人と豪農だけが食べていたようだ。
それは決して日本だけの話ではなく、西欧におけるコムギ文化ではライ麦や大麦、オーツ麦などが同様に農民たちには馴染み深い食料だった。
一般的に日本で雑穀と呼ばれている穀物はイネ科のヒエ、アワ、キビ、モロコシ、ハトムギ、シコクビエ、トウジンビエ、フォニオ、テフ、インドビエ、コド、サマイなどが紹介されている。また擬似雑穀としてアマランサス、アカザ科のキヌア、シソ科のエゴマ、タデ科のソバとダッタンソバが挙げられる。
雑穀は古代から世界各地で栽培され、主食として生命を育んできたようだ。日本では縄文時代にはすでにヒエ、アワ、キビなどが栽培されていた痕跡が遺跡から発見されている。神社の御利益の一つである五穀豊穣という言葉があるように、古来からコメだけが主食であったわけではない。どうやら五穀は時代や地域によって様々だったようだ。
コメやムギ、ダイズが地域特有の品種が生まれ、栽培され、受け継がれてきたように雑穀もまたその地域特有の品種が代々繋がれてきた。しかし、戦後以降の高度経済成長期の大型機械化に伴ってその栽培面積も収量も一気に減っていった。
理由はシンプルである。高度経済成長期に大型の補助金を導入して農業の大規模化を目指した。しかし主にコメとムギの栽培にお金も技術も集中してしまったため雑穀栽培は補助金の対象から漏れてしまったのだ。それは現代において雑穀を栽培しようと思えばすぐに理解ができる。雑穀栽培用の機械がほとんどないのだ。そのため雑穀栽培をされている方々は手作業をメインとしている。
現代の三大穀物を中心に栽培・消費しているヨーロッパをはじめ、アフリカ、アジア、アメリカ大陸では伝統的に古来から雑穀の栽培がメインだった。その理由はもまたシンプルで雑穀と呼べれる作物のほとんどが感想地帯での栽培に向いているからだ。また耐寒性を持つものも多く、栽培面積が狭くなってしまう山間部でも収量が見込める。
コメ文化の日本を中心とした東アジアでも雑穀栽培が広がった理由もここにある。現代のように大きな河川から水を引いてくるのが難しかった時代において、山間部ではコメ栽培が難しかった。
そのためコムギを含めた雑穀栽培は主食そのものだった。江戸時代の文献を調べてみるとコメよりもオオムギやコムギのほうが生産量が多い地域が見られる。
また東北地方では中世から江戸時代の終わりまで雑穀栽培が盛んだったのは太平洋側から吹くやませによる冷害への対策でもあった。
しかし冷害という問題が生まれたのは人間の都合に過ぎない。温暖な気候で生まれ発展した照葉樹林文化が東日本のブナ林文化まで拡大されたことで、コメ・綿花・タバコなどの熱帯作物がその性質に合わない冷温帯で栽培されてしまった。そのため冷夏の年には冷害という社会現象が生まれた。冷害は社会問題であって環境問題ではない。
地球温暖期だった平安時代の終わりに、地球は寒冷化が進んだ。そのとき西日本では定期的に不作と飢饉が起きたが、東日本では寒さに強い雑穀中心だったため、逆に栄えることとなった。それが東日本の源氏の原動力となったのだ。
また江戸時代に生まれた二毛作、つまり裏作としてムギ類が栽培されたのはコメだけが年貢の対象だったからである。つまり雑穀は年貢の対象ではなかったため、直接自分たちの食糧となり、余った分は売ることで百姓は現金を得ることもできた。それが農業以外の仕事を兼ね持つ百姓の誕生を促したといってもいいだろう。
江戸時代の農書には「なぜ飢饉が起きるのかといえば田にイネばかり植えることばかりに専念して、それ以外に土地のことを念頭に置かないから」といったような忠告がある。昔から農家がイネだけでも早稲から晩稲まで多品種を植えて飢饉対策をしていたように、イネだけではなくさまざまな雑穀を植えることでさらなら飢饉対策をしていた。まさに重要機能のバックアップの実践である。
雑穀が近年になって再注目をあびているのは決して食糧問題だけではない。その栄養価の高さである。白米と書いて粕と言われるように精米されたコメの栄養価は炭水化物ばかりに偏っている。玄米にはタンパク質や脂肪、ミネラル、ビタミンなどが豊富で完全栄養食と呼ばれている。
それと同じようにタネそのものである雑穀には非常に栄養価が高く、完全栄養食ともいえる。また玄米同様雑穀はタネとして保存するため、白米のように酸化が起きにく、味も簡単には落ちない。そのため雑穀栽培をされている方には穂から50~70cmだけ切り取った状態でハゼ掛けしておいて、食べるときに都度脱穀や調整をする人も多い。
一粒万倍という言葉はコメやムギだけではなく雑穀にもぴったりの言葉だ。たわわに実った穂はこうべを垂れて田畑を埋め尽くす。その様子に私たちは喜びとともに安心する。そう、穀物は多ければ多いほどありがたい。
食糧とくに主食となる穀物はたくさんあるほうが安心するため、そのためどうしても栽培量は増える。私たちは節制を美徳とする民族のため、ついつい食糧ロスを悪いことだと考えがちだ。しかし穀物の食糧ロスはあっていい。足りないよりはあったほうがいいのだ。
しかし国全体で、世界全体で収穫量が多くなりがちな穀物はそのまま自由市場に出してしまうと常に暴落してしまう。アメリカをはじめ欧米諸国が穀物農家に対して所得補償しているのはそのためだ。そして日本で戦前に起きた米騒動も自由市場に出してしまったがために起きたことである。
雑穀栽培が大型栽培化できていないのは逆に家庭菜園や小農家たちからすればチャンスかもしれない。食糧が安定するばかりか、コメやムギ価格の市場原理に惑わされずに済む。そして今度地球規模の気候変動に対抗する手段として有効だろう。それはこの雑穀栽培をしてきた百姓たちの数千年の歴史が証明している。