耳を澄ませる、そば耳を立てる
<観察の極意と人間生命>耳を澄ませる、そば耳を立てる
もしあなたが原生林や山奥で白骨化した何かしらの遺体を見つけたとしよう。それがヒトのものであるのか、それとも他の獣のものであるかを判断するには何を見たらいいだろうか?
実は解剖学の世界ではまず何よりも耳の骨を見る。哺乳類と他の生物ではそもそも耳の構造が違い、そして各哺乳類の種ごとに特徴的な耳の骨を持つ。そのため耳の骨を調べれば、それがその種なのかが分かるのだ。
必ず耳の奥、つまり耳の穴の行き止まりである鼓膜の内側(中耳)に三つの骨を持つ。鼓膜に近いほうからツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨。この三つを合わせて耳小骨という。
この耳小骨(じしょうこつ)は哺乳類の四大特徴の一つ
であり、他に「乳を与えて子供を育ていること」「毛が生えている(けもの)」「卵ではなく子を産む(カモノハシを除く)」となる。
ツチは金槌のツチ。キヌタは布を叩いてツヤを出す砧という道具。アブミはウマに乗る時にペダルの役割をする鐙を意味する。その中でもアブミ骨はヒトの身体の中で一番小さな骨である。もともと一つの骨だったと感g萎えられており、ツチ骨、キヌタ骨は魚の顎の関節と特殊相同であることから魚類にも聴覚のような感覚があると考えられている(もちろん私たちヒトが感じているものとはまるで違うだろう)
耳の中に入ってきたわずかな空気の振動が鼓膜を震わせ、さらにその振動がこれらの小さな骨に伝わることでどんどん増幅し、さらに脳に近い内耳に伝わっていく。ここで初めて私たちは音を認識するわけだが、この骨の大きさや形は一人一人違うため、たとえ隣の人と同じ音源から聴いている音は決して同じではない。音もまた個人的なものである。
私たち哺乳類の祖先である爬虫類では耳小骨は顎の上下を構成する骨である。魚まで元を辿ってもやはり顎関節の骨に相当する(特殊相同)。これを音の振動の増幅に使うのが哺乳類という生き物で、私たち哺乳類は爬虫類や魚類と比べて大きな音を聴いているとも言えるし、小さな音まで聴こえているとも言える。
モグラやコウモリなど暗闇の中で活動する哺乳類にとって音は最重要な情報である。そのため種によってさまざまな形をしており、さまざまな音を聴き分け、それぞれに暮らしている。おそらく種が違うと話が合わないことだらけだろう。
最古の哺乳類は白亜紀末の地層から出たアデロバシレウスと呼ばれるモグラやネズミに近い、たった15cmほどの大きさの生き物だ。食虫類から進化したと考えられ、昼間に大型の恐竜が闊歩する時代に地中や夜間にこそこそと活動していたようだ。そこで活躍したのがこの耳の骨の構造なのである。恐竜から逃れ、小さな昆虫を食べるために大いに活躍したのだ。そして哺乳類が獲得した耳たぶは音をさらに拾いやすくなっている。
10月ともなれば、里山には秋の気配が漂う。盛夏にはあんなに鳴いていた虫たちが一斉に鳴き止む。秋の本格的な訪れを音から感じる人も多いだろう。日本語ではこの秋の気配のことを秋声という。
虫のすだく音や微かな葉すれの音、窓を打つ雨音などから伝わる秋のもの寂しい感じのことだ。ああ、秋だなと心が動く瞬間であり、耳に聴こえる音だけではなく、心の耳にまで届く音、雰囲気や空気感なども指す。
秋がいち早く訪れる山の中でテントを張り、寝袋の中で過ごしてみると、秋声が世界を彩る。とくに朝凍えるような寒さの日の秋声は静寂とも違う静けさが山全体をすっぽりと覆う。
私が知っている限り朝の原生林ほど美しい時空間はないのだが、そのなかでもあなたに聞かせたい音がある。それが私が静穏と呼ぶ音だ。静寂でもない、無音でもない音である。厳密に言えばそれは音ではなく時空間なのかもしれない。耳だけではなく身体全体で振動する音とでもいえばいいだろうか。
親しい間柄の恋人や家族、友達と沈黙の中で過ごしていても気にならない、嫌な気がしない、気まずくないという体験、いやそれどころか心地よく、安心しきっていて、ついつい眠たくなるような体験を経験したことがあるだろう。そう、その時空間こそ静穏なのだ。
この静穏の中、飲むコーヒーは格別にうまい。歩く時間は格別に心地よい。その音を再現した作曲がに出逢ったことがない。おそらくどんな楽器でも奏でることができないだろう。なぜならその音を奏でているのはまぎれもなく私たち自身の耳の骨だからだ。
私たちが聴こうとして聴く音と、耳を澄ませて聴こえてくる音は違う。耳を傾けるときの音とそば耳を立てたときの音も違う。それは意識一つの違いなのだが、呼吸が変わり、身体のセンサーが変わってしまうから、全然違う音に聴こえる。骨と骨をつなぐ靭帯や周りとの筋肉の様子が変わってしまうのだろう。
アニミズムのカミの声を聴くときのポイントは、聴こうとして聴くのではなく、耳を澄ませて、風とともに入ってくる微かな音に身を任せる。そば耳を立てて三つの骨が微かに振動し、そのままにしておいてやる。すると不思議なことに今まで聴こえていなかった音が自ずと聴こえてくるだろう。想像以上に遠くから音が流れてきていることに気がつくだろう。
音はあなただけのものだ。あなたの耳は誰にも真似することができない楽器だ。耳から始まる新しい世界を楽しんでもらいたい。