動物性堆肥について~江戸時代の農書からの推測~
<動物性堆肥について>~江戸時代の農書からの推測~
自然農に切り替えるのが一番難しいのは過去に動物性堆肥を使用していた畑であり、オーガニックのイメージとは真逆で残念なことに、化成肥料と農薬を使っていた畑よりもいわゆる有機栽培をしていたところのほうが切り替えが難しい。
畑によっては10年以上影響が続くという。確かに過去に動物性堆肥を使用していた畑は固く・冷たく病気になりやすい。そして何よりも害虫の発生頻度が高い。もし切り替えをしたい場合は長い目で見る必要がある。ちなみに植物性堆肥や微生物資材なら切り替えは比較的容易で、一番切り替えが簡単な土地は耕作放棄地歴が長い畑だ。
多くの人が知っているように江戸時代はオーガニック大国だった日本。
そのなかで農家たちは牛糞や馬糞と草を発酵させた厩肥、人糞尿、干鰯などが肥料(当時は肥料とは現代の堆肥を意味している)として投入していた。
しかし、江戸時代の農書を見る限り害虫被害の多さに苦しんでいる様子は少ない。「害虫」という言葉も農書300書のうちたった1ヶ所のみ。虫の名前は良く出てくるが対策などは書いていない。農薬の使用例もたった1種類しかない。その農薬は鯨油を使ったウンカ(イネにつく害虫)退治のみだ。しかも江戸時代の末期の農書にしか書いていない。
じつは害虫や病気の発生を江戸時代の人々は「災害」として考えていた。そのため普段の百姓家族の行い・藩主の仁政(!)・農の神様を祀る祭礼風習が害虫忌避の要だった。
これだけの事実を並べると、江戸時代の農民は害虫にただただひれ伏していたかのようだが実態は違うように思える。だが本当に害虫被害が少なかったようだ。それは江戸時代という特殊な時代が日本で有機栽培を可能にしたからである。
まず、江戸時代の前期には前述した動物性の堆肥は使われてなく、主に草木を使用した堆肥だった。動物性堆肥を使い始めたのは江戸時代中期からで、その理由は江戸時代中期の大開拓事業である。
江戸時代前期まで農民が畑を増やす方法は基本的に山林地の開墾だった。山林地はもともと豊かな土で、皆伐し焼畑をすることですぐに現代でいう自然農のような無農薬無肥料栽培が可能だった。
しかし、江戸時代中期の開拓は全く別事情である。田畑にするには不都合だった干潟や頻繁に洪水が起きる河川氾濫地域を堤防などの整備によって田畑として使えるようにした。この技術は戦国時代の築城技術が転用されたそうだ。つまり、すぐに無肥料栽培ができるような豊かな土がないところを田畑として開拓したことになる。
ここで言葉の意味を確認しておこう。「開墾」は豊かすぎる森林を田畑に変えること。「開拓」は貧相な土地を田畑に変えることを意味している。開拓という言葉はこの江戸時代中期から頻繁に使われ始める。つまり江戸時代中期に開拓された田畑には動物性堆肥のような肥料分の多いものが適していたのだ。
さらにもともと山林地を開墾した田畑も事情が大きく変わる。入会地や茅場と呼ばれる堆肥にするために使う草木の採集場所が開墾のしすぎでほとんど無くなってしまうのである。そのため開墾した田畑もまた、土が疲弊してきたために動物性堆肥は救世主となった。
ここまで日本人が開墾と開拓をしてきた理由ももちろんある。それは決して年貢の厳しさからではない。一番の理由は子供を守るためである。
江戸時代前期までは子供の間引き(子返しともいう)は当たり前の風習だった。それは生まれてきた子供に貧困を味わせないためでもあり、家族全体が貧困に陥ってしまわないための手段だった。しかし、江戸時代に入ると子供に「宝」という言葉を付けるようになった。つまり「子宝」である。これは七五三などの子供の通過儀礼がこの時代に普及したことからわかるように日本神道・産土神の信仰の拡散が重要な役目を担った。
さらに江戸時代以前から続く子孫への遺産相続の風習も関係している。
これは田畑などの土地を子供に分けるときに均等に分ける風習である。
これでは子供が多ければ多いほど、遺産相続のたびに一人当たりの田畑が減っていってしまう。そのため間引きを必要としていたのだ。しかし、間引きが悪習となった江戸時代には子供が一人前の百姓として自立するために田畑を増やす必要があった。そのために家族、親戚、集落共同で土地が許す限り開墾と開拓をしていったのだ。
そして、子孫のために農民は農書を書き残したのである。そのため著者名のない農書も数多く残っている。幕府や藩も田畑が増えることは年貢が増えることであるために、開墾と開拓を奨励した。
しかし「農業は人類史上最大の欺瞞」という言葉があるように話はうまくいかない。あまりにも山林地を開墾しすぎてしまったために、洪水や崖崩れが頻出するのである。そして水量が増えすぎてしまったために、もともとの河川水量で計算して作られていた堤防は想定外の水量に耐えきれずに氾濫を許してしまうのである。ゆえに開墾と開拓の限界にも自ずと達してしまう。
そのために江戸時代の後期にはもう開墾する土地も開拓する土地も無くなった。しかし、子供はどんどん増えていく。そこで農業の現場は限られた田畑の面積において最大収量を目指すようになる。つまり動物性堆肥の過剰施肥とともに生まれた技術が「深耕」なのである。
深耕とはその漢字の通り、深く耕して堆肥をすき込むのである。つまり横の表面積の考えから、縦の体積で養分を溜め込む発想だ。これによってまた最大収量を増やすことができる。
この深耕は動物性堆肥との相性が抜群だった。なぜかと言うと、動物性堆肥はどうしても土を硬くしてしまう。そのため施肥し続けると土の中では酸素欠乏が起きやすく病原菌が繁殖しやすい。なので、定期的に耕すことで酸素を投入すれば植物の根は健康に張り巡らせることができるようになる。水を腐らせないことは植物の病気を防ぐとともに、人間の感染病菌や害虫の温床となることを防ぐ意味合いがあった。
つまり、現代でも動物性堆肥を使用するときは深く耕すことは必須なのだ。動物性堆肥と不耕起の相性は全く良くない。特に雨が多く土が固まりやすい日本では。それを知らない人が不耕起にこだわり野菜作りに失敗する。
さらに動物性堆肥と深耕は江戸時代には大いに活躍した。それは江戸時代の1600年~1900年ごろまでの時期は世界的な寒冷期、俗に言う小氷期が何度も人類を襲った時代である。つまり冷夏の多い時代だったために、世界的に飢饉が何度も発生し人類を苦しめた時代だった。しかし、日本は動物性堆肥と深耕のセットによって小氷期を克服した。もちろん飢饉は日本でもあったが被害は他国と比べると少なく、飢饉からの紛争・戦争もなかった。
本来、寒冷期では害虫の発生が少なくなるが収量も減ってしまうのだが、動物性堆肥で養分をまかない、空気を入れることで地温を補うことに成功した。つまり、現代で動物性堆肥を入れると虫が多い理由は温暖だからである。寒冷だった江戸時代だからこその技術だったわけだ。適正技術は気候と合っている必要もある。(現代でも東北や北海道などでは有効である。)そのおかげで江戸は世界一の人口を誇り、唯一と言ってもいいほど人口増加を続けた国が日本だった。
子孫が飢饉の中を生き残るために、秘伝の書として代々受け継がれてきた農書にはさまざまな堆肥の作り方と使い方が載っている。そのなかで共通していることはその「量」と「タイミング」である。先人たちはこと細やかに、そして口うるさく注意点を書き残している。そういった心配りを怠ると「バチが当たって」、収量が落ち、病気になり、貧困になるのだと。それはつまり害虫が発生して収量を落としてしまうことを意味していた。この教えは迷信ではなく科学的事実だった。
プロの有機栽培農家もまた堆肥の量とタイミングに細心の注意を払う。
しかし、家庭菜園家の人たちでそこまで計画している人をほとんど見たことがない。とりあえず、たくさん使うことばかり考えているように見える。また、気候が全然違う海外の事例をまねる人もたくさんいる。
これら以外にも江戸時代の動物たちの糞と現代の糞では性質の違い(家畜の餌や抗生物質、ホルモン剤など)も大きいと思うが、そもそも動物性堆肥を使う前提として気候、量、タイミング、そして深耕が重要であることを知っておいてほしい。日本で農をするならば「ほどほど」を綿密な計画の上で行うこと。これはすべての農法において共通することだ。中庸の精神は自然農の世界での掟ではなく、日本の気候においてでの掟である。