地中海農耕文化 ヨーロッパの輪作
<地中海農耕文化 ヨーロッパの輪作>
地中海気候とは冬に雨が多くて寒くなく、夏は乾燥した高温の気候のことで、植生から見ると世界的にも珍しい地帯である。この地帯の野生のイネ科植物のほとんどが一年草であり、一年生植物の故郷とも言われている。もっとも農業を開始するのに適当な植物が周りにいっぱい生えていたことから、農業の発祥の地だと考えられていた。
ムギ類はこうした気候に最も適した種だ。秋になって発芽し、冬に間に水に恵まれて根を張り、春に暖かくなると穂を出し、成熟する頃には乾燥した空気で汚れなく輝いて美しい。西洋の自然観ではムギ類こそ主役であるため、一年の始まりはムギ蒔きの9月ごろがシーズンのはじまりでもある。(日本は籾蒔きの4月がはじまり)
この地帯の農耕の特徴は温帯で冬作であることだ。夏は雨が少なすぎて栽培が難しい。エンドウやソラマメの二つの豆もムギとともに文化を担った。日本で冬に栽培されるハクサイ、ダイコン、ホウレンソウなどことごとくこの地域に歴史を持つ。冬の低温と春の日長が開花に有利に働く。
麦畑の雑草から栽培植物に昇格したのがライムギやエンバク、ナタネ、アカザ科やタデ科などだ。これらの植物は貧相な土でも自身の根からたくさん有機酸を出してミネラル分を吸収することができるように適応した植物である。
この文化ではざまざまな家畜が伴った。ウシやヒツジ、ヤギ、ウマ、ロバなど。耕すこと、種子の覆土鎮圧、収穫物の運搬、脱穀、風選など家畜の利用とともに奴隷の利用が盛んだった。農耕の始まりが最初から大規模だった。奴隷と深く結びつくのも当然だった。
もともと農耕は家畜を養うためのエサを確保するためにムギを栽培したのがはじまりだったと考えられている。この地帯では雑草が非常に弱い。そのため家畜の世話は植物の栽培から始まる。
この地域で生まれた二圃式農業は秋まきコムギと休閑の繰り返しである。これによって灌漑設備を導入できなかった地域でも農業が可能となった。単一面積での収量自体はどうしても減るが、大規模の面積を畑にすることができたため、全体の収量は増えた。
さらに発展したのが三圃式で春蒔きオオムギ、クローバーなどのマメ科緑肥を家畜に食べさせて、秋まきコムギと回していく。ゲルマン系の民族がはじめたという。
こうして三年に一度は休ませない地力を維持することができない。そのためにヨーロッパの地方はただただ広い土地が多く、村と村は遠く離れている。どうしても人口密度は小さくなる。
育てる作物を変えること、耕耘の方法や時期が変わること、作物から出されるアレロパシーが変わること、肥沃度が変わることなどが特定の雑草が繁殖するのを防ぐ意味合いもある。
のちにノーフォーク式と呼ばれる春蒔きオオムギ、マメ科緑肥(家畜のエサ)、秋まき小麦、カブと繰り返していく方法は江戸時代の日本にも伝わった。日本では緑肥のあとに大根を育て、トマトを栽培している。
日本ではあまりイメージが湧かないが農耕はもともと水が少なく、森林が発達せず、貧相な土の地域から始まったものだった。そのため農耕と灌漑施設はセットであり、農耕と家畜も同様だ。
つまりヒトが自然の摂理に抗う営みこそ、農耕のはじまりでもある。農耕が発達した古代文明は大きな河川の氾濫地域に集まった肥沃な土壌を利用し、その河川から水を引くことで可能となったものだが、もともと乾燥地帯である。
雨が少ない乾燥地帯は酸性になりにくく栄養分に富んだ土壌だが、水が少ない。そこで大きな河川から水を持ってくる灌漑農業によって問題を解決した。それが古代文明である。
そのため古代文明は水の蒸発や蒸散によって土中内の水が吸い上げられ、ナトリウムなどの塩分を多く含んだ地下水が上昇し、地表に塩分が集積する。いわゆる塩害(塩類化)である。
畑を休めたり、適切な水量の灌漑水で洗い流す必要がある。しかし、水路が土砂で埋まってしまい、水管理ができなくなってしまったのだ。なぜなら、古代文明の発展によって人口が増え、建築物を増やすためにレンガを多く必要とした人々は、日干しレンガではなくもっと早く大量に作れる焼成レンガに頼ってしまった。そのため森林の樹木は大量伐採され、燃やされた。
雨が少ない地域では日本のように勝手に森林に戻ることが少ない。そのため上流部の森林は消失していく一方だった。そして大量の土砂が灌漑設備に流れ込んだのだ。そして大洪水によって都市までにも大量の土砂が流れ込み、文明は崩壊したと考えられている。この失敗は過去のものではなく現在でも中国内陸部や北米内陸部などで起きている。
ヒトによる農耕は自然の摂理に抗うことから始まったかもしれないが、自然の摂理から逃れることはできない。だからこそ、自然と寄り添う必要もあるのだ。どちから片方だけではこの地球では生きていけない。