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暴れる力とイノベーション

フランスからのニュースを読んで久しぶりにブログが書きたくなった。個人的に結構頻繁に考え込む議論の一つで「暴力」がある。自称「イノベーションパンク」として社会にどうやって変化をもたらすか、につながるので重要な議論だと感じる。

デモなどは一度も参加したことが無いが、何というか、心で参加しているデモはいくつかある。あまり人が好きな方ではないので、人混みは極力避けながら応援している活動はある。

フランスで起きている暴動を見ながら久しぶりに暴力という現象について真剣に考えたくなった。

暴力は全て悪か?


DVとか虐待に使われる暴力と、戦争で使われる暴力と、デモなどで使われる暴力が全て同じかどうか。個人的には、暴力はいわゆる結果であり、根底にある問題の表現の一つだと考えるので、暴力が持つ意味や意図は全て違うと考えている。なので、全ての暴力が悪だとは思わない。

国民が国家や権力に長い期間圧力をかけられている場合、その行為は暴力か?
暴力が物理的な物か精神的な物であるかどうかはあまり関係ないのは一般的に理解されていると思う。ただ、その先の議論で、極力避けられていると感じている議論がある。それは、暴力の度合いや、もたらされる影響は主観的な要素がほとんどだ、という点だ。その行為が、痛みを及ぼしているのか?その痛みが自尊心やその人の精神にどのような影響を与えているのか?これらの大部分は主観で決まるし、同じ行為を受けたとしても時と場合によってはそれを暴力と感じないこともあると思う。例えば、私の場合、混血であるがゆえどの国に行っても「外国人」扱いされる。「外人」という表現を同じ外国人が使う場合と日本人が使う場合では、意図に関係なく、私が感じるストレスは全然違う。このように、その行為そのもが暴力的に感じられる場合と、そうで無い場合があることは皆さん感じた事があるはずだ。

国家や権力者の意図がなんであろうと、それらの行為に意図を感じ、痛みを感じたらそれは暴力になる。

誰が先に手を出したのか?

結論から言うと、暴力については、誰が先に手を出したかは全く関係ない。「先」と言う考え方が複雑すぎるからだ。いつから痛みを感じているのか?痛みが限界に達して手を出してしまった時、物理的な痛みと精神的な痛みの度合いを平等に見ることは物凄く難しい。前にも書いた通り、長い期間圧力を受けて来た人が限界に達して暴力に頼った瞬間の事情だけを基準にし、その人の行為の正当性を判断するのはあまりにもアナログすぎる。

重大な犯罪や事件が起きた時には、発生した暴力的行為に正当性があるかを丁寧に吟味する事がある。日常的な暴力をそこまで掘り下げて考えるのは非常に難しい。だからこそ、まず、表面的な行為(暴力)にあまり惑わされないようにしたい。

暴力には時系列があり、階層があり、外部的圧力が関わっている。

暴力に賛成か?

賛成する時と賛成しない時がある。おそらく人間みんなそうだと思う。今フランスで起きているような暴動に賛成するかどうか、と言うより、人々はどんな複雑な圧力や依存関係から暴力という結論に至っているのか?だけに興味がある。全ての人々が、これらの複雑な現状を理論を通じて理解することはできない。話し合いで解決しよう、という話は聞こえはいいが、できない場合があることも理解しなければいけない。複雑な話を理論を通じて理解出来る人、したい人、出来ない人、したくない人、がいる。理論ではなく比較的に感性で物事を理解したい人たちが理論で物事を理解しようとする人たちと同じペースで納得することもなかなか無いと思う。感性に頼る人たちの判断はときにはものすごく早く、ときにはものすごく時間がかかる。

暴力はなくならない

世の中から暴力がなくなることはない。世の中が監視カメラで覆い尽くされ、どんな小さな肉体的暴力も証拠として使われ、罰せらられるようになったとしても消えない。我々は、暴力ともう少しちゃんと向き合わないといけないと思う。我々が弱者から資源を搾取し続け、権力を振りかざし続ける限り暴力は続く。それを悪として蓋をするのか、それとも一つの社会的現象として向き合うのか?

個人的な感覚として、体を張り、暴力を通じて様々な非条理で時代遅れな制度を変えて来た人々をリスペクトしている。暴力無しで変えられたに越したことはないが、このリスペクトは平和的デモをしている人達や議論のみで複雑課題を解決している人たちをリスペクトしているのと同じリスペクトだ。皆、ある程度リスクを取り、社会を良い方向に変えようとした、と思っている。今あちこちで起きている暴力がそれとどう違うのかは、はっきり言って時間が経たないとわからない。なので、各メディアが煽るように、その場で白黒させようとする事をやめたい。白を作れば白以外は黒い、となるからだ。

イノベーションパンク

私は最近、自分はイノベーションパンクであると思い始めている。イノベーションを加速させるには、時には荒治療が必要だ。暴力が必要と思ったことはないが、もしかしたらそれはまだそこまで大きなリスクを取れていないだけかもしれない。暴力という行為が、大きなリスクを取ってまでして世の中には別の考え方もある、という認識を広めるための最終手段だとした場合、私にも暴力的な行動を取らざる得ない日がくるかもしれない。ただ、私の場合は殴り合いよりも思想で戦いたい。そして、その行為を見た一部の人達からは、暴力的な人、と言われる覚悟でやるしかない、と思っている。イノベーションを本気で追求する勇気が必要ということになる。

イノベーションという言葉が陳腐化されてしまった時代だからこそイノベーションが大好きなパンクでありたい。肉体的にも、思想的にも暴力はふるいたくないが、覚悟はできている、と気持ちを改めたい。


(写真はGettyより。ボストンマラソンで始めて女性が参加した際、怒った男性走者がその女性走者を阻止しようとしているところ)

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