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ドラマ「俺の家の話」で泣きはらしたあと、柳田国男の「先祖の話」を読んでもう一度泣いた
TBSドラマの『俺の家の話』の最終回を見て、涙腺が洪水を起こした。
SNS上の反響を見る限りでは、私のような視聴者は多かったようだ。その内容は多くのニュースで取り上げられているので割愛するが、数日前にたまたま読み始めた『先祖の話』が『俺の家の話』とリンクしていて、また泣いた。なので、ここに書き記しておく。
■寿一の死後と日本人の死生観
『先祖の話』は民俗学者であり官僚でもあった柳田国男(1875年~1962年)の著書。
日本の戦況が日ごとに悪化していた1945年の4月に執筆が始まり、それまで蓄積した知見やフィールドワークをもとに、日本人と先祖との関係性についてつづられた本である。
同著によれば、日本では、死者の霊は遠くに行かず、末永く土地に残ると考えられていたといい、この点が、外国から伝来した宗教と明白に喰い違う点だという。
そして、死霊は残された者によって手厚く弔われることで、いずれ「ほとけ(注:著書によれば、“ほとけ”にはいくつかの意味があるそうだ)になっていく」と考えられていた。
長い歴史の中で、外来の宗教によって日本固有の死生観に変化が訪れたものの、さまざまな風習として無意識に保存されているそうだ。
そうしたことを読みながら、『俺の家の話』の最終回に思いを馳せる。
『俺の家の話』の最終話で死んでしまった寿一は、成仏していないわけじゃないんだな、と思った。きっとこれからも「俺の家」やプロレスのリングにいて、残された者たちを見守って先祖になっていくんだろうな、とも思った。今日も家族と共に、米と汁物を囲んでいるんだろう。
そうして家族に大切に祀られ(まつられ)、自身も家族の様子を見守ってきたからこそ、エンディングできょうだいの将来や、数十年後の息子の未来にも言及できたのではないだろうか。
コロナ禍で「供養」や「お別れ」の機会が著しく制限されている今、難しい単語を使わず、細かく説明もせずに「死者と家族の関係」について考えさせる脚本家の筆力は鳥肌がたつほどすごい。
■海外ではこの結末は受け入れられるのか?
ところで、「このドラマの終わり方は、外国では受け入れられているのか」という疑問が生じ、海外の2つのレビューサイトを見てみた。
中国語の大手レビューサイトでは、放送途中まで絶賛コメントが多かったのだが、最終話直後では「主人公が死んだので☆1つマイナス」という声も目立つ。
一方、英語のサイトでは、レビューが1件のみ。そもそもほとんど書き込まれていない。
仮説ではあるが、日本人が誰に教えられたわけでもないけれど、心のどこかで受け継がれてきた「死んだらその土地に残り、少しずつ先祖になっていく」という感覚は、理解が難しいのかもしれない。
■『俺の家の話』で記憶が呼び覚まされた「私の話」
最後に自分の話。
『俺の家の話』を視聴してから『先祖の話』を読んで、田舎の家族の葬式を思い出した。
私を始め参列者は涙にくれていたが、近所の和尚さんは、読経を終えた後、このような趣旨のことを言っていた。
「これからも故人は、この里山の中を自由に駆け回り、花の影や、木の葉の裏にいて、皆さんととも過ごしていくでしょう」
私がこの言葉によって喪失感を少なからず埋めてもらえたのは事実だ。
以来、お盆の時期には盆踊りをこれまでよりも張り切って踊り、よく訪れていた山菜の生息地には故人の影を見る。ああ、今年の夏は、ふるさとに帰れるだろうか。
……と、こんな風に、『俺の家の話』を通じて、観山家の一員となったような気持ちになりながらも、自分の家族の喪失体験まで思い起こさせる脚本力と俳優陣にいつまでもステンディングオベーションを送りたい。