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【読書感想文】児童向けの哲学書から考える!「育ちのいい人」って結局どんな人?

 『「育ちがいい人」だけが知っていること』がベストセラーになり、続編も出版されている。
 
「「育ちのよさ」を演出するマナー本には需要がある」という、二匹目のドジョウ狙いの編集部の意図が強く表れているように思う。
 
このシリーズがここまで影響力を持ってしまうと「サンドイッチを“横食べ”したから、マナーがなってない」「白い上質なハンカチじゃないから、ダメだ」という、不要ないさかいや蔑みを引き起こしやしないか。
 
そもそも「育ちがよい」の文脈から個々がイメージする姿はさまざまだろうに。
 
「きちんとしたマナーを身に着けた人」「豊かな家で生まれ育った人」「一見、上品な人」「豊かではないけれど、なんだか品がいい人」「謙虚でガツガツしていない人」「素晴らしい家系図のもとに生まれた人」などなど。
 
みなが同じイメージを共有していない「育ちがよい」という言葉にモヤモヤしていたところに、子ども向けの本(『子どものための哲学対話』)で「育ち」と「生まれ」についてなかなかおもしろい説を紹介していたので、紹介していこう。 

【★「上品」と「育ち」について★】

勉強しているときも、仕事しているときも、なにか目標のために努力しているときにもなぜかいつもそのこと自体が楽しく、何も意味のあることをしていなくても、ほかの誰にも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりている人を「上品」と呼ぶ。
 
さらに、自分の未来(近未来・将来)のために自分の現在を犠牲にできる人が「ちゃんとした人」で、未来のための準備それ自体を現在の遊びに変えてしまう人が「ネアカ」で「ちゃんとした」人で「育ち」のよい人。 

【★「下品」について★】

何か意味のあることをしたり、ほかの誰かに認めてもらわなくては、満たされない人が「下品」。

―― この考え方を流用すれば、『「育ちがいい人」だけが知っていること』のメソッド、誰かにほめられるためでも誰かを非難するためでもなく、自分のために楽しんで自然と身に着けられる人がいるのなら、それは「育ちがよい上品な人」と言えるのかもしれない。
 
その反面、他人から「育ちがいい」と思われるため、人から選ばれるために、楽しくもないのに無理をして「育ちメソッド」を身に着けて、「あの人は大口を開けてサンドイッチを横食べしているから、自分より育ちが悪い」などと、他人を蔑むのは「下品な人」となる。

 


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