日本芸能界の合わせ鏡なのかもしれない、『キャッチ・アンド・キル』でつづられたこと
「芋づる式」という言葉がある。ハリウッドの超有力プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインをたどっていくと、まさに芋づるのように、あちこちで他の事実が判明していくさまが、『キャッチ・アンド・キル』(ローナン・ファロー著/文藝春秋)につづられている。
芋づるの先に実っているのは、芋ではない。組織を腐らせ、関わる人を疑心暗鬼にさせる猛毒芋である。
「つる」として彼らをつなげているのは、金と権力と損得勘定だ。
「不都合なものをもみ消したい」「つぶしたい」という権力者による需要があり、それに見合った供給が生まれる。結果的に特権階級が使える闇のPR組織や、良心を持たない弁護士が私腹を肥やす。
「映画業界は権力を持った男たちのクラブなの。ハリウッドマフィアのね。彼らはお互いにかばいあってる」
同著の中で取材対象がそんな言葉をつぶやく場面があるが、政界にまで及ぶ「芋づる」によって、暴行を受けた数多く時の女性たちは、キャリアの将来を人質にとられ、告発すれば「枕営業」「不倫」「誘惑」という印象をばらまかれて情報操作をされるなどの報復を受ける。被害者はそれを恐れ、口を閉ざす。
抗おうとすれば「芋づる」からの執拗な攻撃を受ける。ジャーナリストが丁寧に集めた情報や、被害者のキャリアは「kill(殺す)」される。
同著には、ジャーナリズムになどまるで興味のないテレビ局員や記者、権力にすりよって波風の少ない方法を選択するメディアの上層部のふるまいによって傷つけられる人が多く登場する。一方で、取材対象に真摯に向き合い、圧力に屈しない人たちもいる。
その対比はじつに鮮やかだ。
ジャーナリズムに真剣に向き合う人たちが連帯して、あまたあるうちの一株の「芋づる」の存在を明るみにして、結果的に評価された事実があることは、アメリカ社会の振り幅の広さを表しているように思う。
手記の終盤、ワインスタインが断罪されてからは、著者が所属していたテレビ局内のセクハラ案件へと話がつながっていく。
ハリウッドの華やかな世界から、会社組織に、そして自分の身近に。
読み手の意識を、「自分ごと」「自分の大切な人のこと」に落とし込んでいく。
「あのこと」は、あなたのせいじゃない。そして「私」や「大切な人」と地続きの問題なのだ。
ひるがえって日本を見つめると、映画界で自分の被害をカミングアウトする女性が現れ始め、その声に耳を傾ける人が増えている。圧倒的な立場の違いを利用し、女性をつかまかえて、キャリアや人間性を貶めたあげく、関係者で「おたがいをかばい合う」構図があるのなら、それについてもっと知りたい。