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「伊豆海村後日譚」(40)
沼津港は大型船が停泊する外港と、近隣の遊覧船の発着に利用される内港に分かれるが、パク・チョルスが目指す貨物船が停泊する外港の突堤は港の最東端にあり、彼が駿河湾を泳いで侵入した外壁はその最も西にあった。
鉄屑の小山を通り抜け、小型船舶の繋留所を通り抜けた。男の発する「匂い」に気付く者はいなかった。錆びたオイルタンクの横を過ぎる。煌々とした照明を浴びて海に浮かぶ黒い塊が視界に飛び込んできた。
総トン数千五百、「いいすとしいびいなす丸」は、さして大きな貨物船ではないが、その時のパク・チョルスにとっては世界の全てだった。
鼻の奥が滲む。元少佐は下を向いて歩いた。
食えるものは何でも食った。
たとえ出身成分に恵まれようとも、それが毎日の食糧を保証するものではなかった。爪が剥がれるまで掘り続けた土の中からようやく見つけた芋虫は貴重なタンパク質だった。着られなくなった服から紡いだ糸の両端で石を巻いた道具が効力を発揮し、コウモリを捕まえてくることのできた夜は弟も妹も笑顔だった。
痩せた土地でも栽培できるジャガイモは、苺程度の大きさにしか成長しなかった。それでも何もないよりはましだった。近所の者に栽培が見つかると私有財産の隠匿と見做される可能性があった。口止め料として乏しい芋を近所に分け、残った量は全部掻き集めても握りこぶし程度の大きさにしかならなかったものの、密告された後の結果を想像すると致し方なかった。年を経るごとに土壌は枯れていき、霜が全てを駄目にする冬が繰り返された。
幼くして死んだ兄弟の肉を食った朝、無神論者のパク・チョルスでさえ、それが何か得体の知れない巨大な観念に反する行為だということを強く感じた。真っ赤に染まってささくれ立った神経が体中のあちこちでのたうち蠢き、もう俺は人間じゃなくなったと鐘を打ち続けていた。生き残った者同士であらかじめ固く誓い合った約束に準じて一切涙を見せずに肉入りスープを食い終えたジョンヒョンがぽつりと告げた、これでみんな地獄行きだという言葉はよく覚えている。じゃあここはどこだ、と彼を箒で叩きながら答えた母の涙声もよく覚えている。
そこが祖国だった。それでもそこが祖国だった。
この船は、俺の魂を約束の土地へと運んでくれるだろうか。俺の体はここで終わりを迎えるだろうが、心はなおも生き続け、アボジとオモニが眠る土へと還りつくことができるだろうか。
パク・チョルスは眼を閉じて、神経を鎮めた。周囲の騒ぎ声や無線のノイズが洪水のように渦巻いて体を包んだ。そのままそこに立ち続けていれば激しく目立つことは分かっていたが、それなら誰でもいい、今すぐ撃ってくれ。
再び眼を開いた。銃弾はどこからも飛んでこなかった。男は再び歩き始めた。道はやがて水路にぶつかった。船は眼の前にある。手を伸ばせば届きそうなほどに。海に飛び込めばすぐに泳ぎ着けそうなほどに。それなのにそこには水路が黒く深い水を湛えた障害物となって眼の前でたおやかに揺れている。
小さく舌を打つ。はやる気持ちを抑えた。二日前、焦るこの身をコントロールできなかったことが、今の状態を招いたのだ。
水路に沿って道を左に曲がり、日中は観光客にも開放されているという水門の下を通り過ぎる。ここからざっと九百メートルほど内海沿いに歩くことになる。警官の密度がバングラデシュの首都並みになってきた。周囲から浮いた集団が前から歩いてくる。若い女と、偉そうな雰囲気の五十代の男。巧妙に距離を置いているが、四人のガードマンが二人と全く同じリズムで歩いている。
心臓が跳ねた。女に見覚えがあった。俺の今現在の素顔を知る数少ない証人として、この場に招待されているのだろう。だとすれば隣の男はその風体からして、ここの総責任者か。それにしてもマヌケな男だ。今ここにトップの人間が貴重な証人を引き連れて歩いてますよと喧伝してどうする。これではサムライ時代の習慣だったという大名行列ではないか。何かの囮なのか?
あいにく水門の周囲は通路も狭く、チョルスは通路の右端にゆっくりと寄った。先程殺害した警官から頂戴した懐中電灯を取り出し、光を海に当てて体を半身にし、水面下を捜索する演技を始めた。近づいてくる彼らを一切意識しないよう努める。気配を感じとろうとすればするほど、こちらもまたそのような周波を発してしまうものだ。
彼らとすれ違った後も元少佐は海面を照らし続け、その向こうを覗き込むようにして速過ぎず遅過ぎず歩き続けた。
***
香は落胆していた。
どこもかしこも怒れる警官だらけじゃないの。
正直、油断もあった。沼津から八木橋行きのバス車内で何らかの違和感を抱いた自分、その出所が白髪の老人にあると感じた自分、一見他人同士の乗客が実は仲間なのではと疑った自分。
そんな自分の感覚を、絶対に狂うことのない磁石だと自負していた。とんでもない思い上がりだ。あの時はまさか自分が警官殺し御一行様と同乗の客になるだなんて想像もしていなかったから、逆に余計な情報に惑わされることなく、自分の見た景色、自分の嗅いだ匂い、自分の聞いた音、だけを頼みに判断材料とできた。
今は違う。予備知識が逆に判断力を鈍らせている。父を殺されたというやり場のない怒りが冷静さを失わせている。
コンパスの針はぐるぐる回り続けるばかりだ。パトカーを降りて五分後には、彼女は弱音を吐いていた。「駄目です」
本部長はその言葉に、屈折した喜びを感じた。県警の精鋭が束になってもこの時間まで捕まえられなかった男を、二十歳の素人に容易に見つけられても困るのだ。
「警官が多すぎて、正直、全員が怪しく見えます」
吉岡は苦笑する。パク・チョルスは一見、平凡極まりない容貌をしているそうですね。
「芝居で公務員Aという役があれば、彼ほどの適役はいません」
「あなたは彼の何から異質なものを感じ取ったのでしょうか」
的確な言葉が思い浮かばず、答えるまで十三歩分の時間を要した。
「上手く言えないのですが、敢えて言うなら『匂い』です」
「匂い?」
「はい。別に体臭がきついという意味ではないんです。ただその人から漂う空気感と言いますか、それが明らかに常人のものではないような。すみません、説明になっていませんね」
「いや、言わんとすることはよく分かります。どうですか、この警官の群れの中にそういう匂いを発散させている者は、今のとこ見当たりませんか」
「それが困るのです」彼女は本当に困っていた。
「実は誰からもそのような匂いが」
「ーなるほど」
無理もなかった。ここにいるのは特殊急襲部隊、機動隊、捜査一課や組織犯罪対策局の猛者といった、それぞれがそれぞれの常住する世界ではやはり浮き上がってしまうような、ばりばりの闘争オーラを内包した連中だった。そんな連中が怒りも露わに自分たちの仲間に手をかけた男をひっ捕らえようとしている以上、その発散するエネルギーたるや尋常なものではなかった。
擦れ違う男どもの何人かは、香の顔にぎょっと立ち竦む。昔さんざん体を触ってやったあの女がなぜ今、雲上人たる県警本部長と連れ立って歩いているのか。何人かは内部監査と勘違いし何故今ここでこのタイミングで、と顔面蒼白となった。
「三留さん、あなた本当に顔が広いようですね」
「恐れ入ります。ただ、私も余計に集中力が削がれます」
「軽い気持ちで歩いてください」
馬鹿じゃないのかこのオヤジ、香は胸の中で毒づいた。自分の父親を殺した男を探して歩いているのだ、どうすれば軽い気持ちになれると言うのか。
無線機に向かって怒鳴る男、右手を握ったり開いたりしている男、腰に手をあてて上半身を反らしている男、水路を懐中電灯で照らしながら歩いている男。誰もがパク・チョルスに見える。
四人のガードマンを従えた静岡県警の長と民間協力者は、沼津埠頭保税蔵置場の建物で折り返した。更に西に進んで防波壁を越えれば、そこに県警の新たな犠牲者がテトラポットの中で永遠の眠りについている訳だが、彼らはもちろんそんなことを知る由もない。
「あの」今更ながらと思いつつ、香はおずおずと提案した。
「いずれにしても最終的にあの男は『いいすとしいびいなす丸』に近づく訳でしょう?だったら最初からその前で張ってればいいんじゃないですか」
「船の横にはテレビカメラも入っている。そこでの捕り物劇は大騒ぎになる恐れがあるし、民間人の犠牲者が発生する危惧もある。その前に何とか奴を捕捉したいのです」
「すみません、私ではお役に立てそうにありません」
「三留さんが最初から船の前で張っていると、あなたに気づいた奴が回れ右して逃亡するかも知れません」
「私の姿に逃げ出すくらいなら、もっと早く沼津を抜け出していたでしょう」
本部長は溜息を隠そうともしなかった。
「分かりました。第二魚市場の突堤まで急いで戻りましょう」
***
沼津内港を周回する九百メートルの道。異様に長く感じられた。
前を向き、顎を引いて歩いた。一切の表情を消して歩いた。
魚市場を抜けた。いよいよもうすぐだ。再び水門の下を沖の方向へとくぐる。水門を抜けると船はもうそこにあった。鋼鉄の質感が闇夜と溶け合うことなく、その存在を周囲から際立たせている。沼津魚類協同組合製氷工場の横を過ぎ、いよいよパク・チョルスは外港突堤に足を踏み入れた。
並んだ鉄骨に屋根を被せただけの第二魚市場横のアーケード下では、体格も目つきも周囲とは異色の集団がライフルを構えている。特殊急襲部隊、SATだろう。満海人民軍時代、潜入工作員の出入国方法に関するレポートを作成するため連中の分析を行ったことを覚えている。何度計算しても同じ数で撃ち合ったら我が軍は全滅、向こうは軽症というのがシミュレーションの結果だった。上に提出する報告書の改竄は容易だった。誰も彼もがそういう訓練を幼い頃から受けてきているから小さな嘘は簡単に看破されるが、誰も彼もが想像という概念を知らずに育ってきたから大きな嘘は意外なほど見破られなかった。
有事の際には躊躇なく発砲せよという指令を彼らが受けているならば、自分が船に乗ることは空の星を取るよりも難しい。
そうはならない、元人民軍少佐には確証があった。俺にとってこれが最後の大仕事であるのと同様、彼らにとっても俺の捕獲はこの重大事件で唯一のペンディング事項だ。いよいよトリを飾る任務に着手するその時、奴らは絶対に躊躇する。殺していいのか、生け捕りにするのか、生け捕りにするならばどの程度まで痛めつけていいのか。優秀なコマンドであるこいつらも、たとえ既にあらゆる状況下での指示を受けていようとも、いざその時が来れば全員が判断を右の同僚の動きに委ねようとするに違いない。
鎖を超え、通行止めの看板は当たり前のように脇にどけた。ようやく一人の警官が小走りで近づいてくる。「所属と氏名は」
押しのけた。予想外の反応を示された男が尻もちをついて倒れた。周囲のざわめきが空気を震わせ、パク・チョルスの鼓膜をも震わせたが、何も怖くはなかった。ざわめきは所詮ざわめきだ。毎晩俺の枕元に立つ亡霊と同じ、実体のないものだ。実体のないものに倒された経験は、俺にはまだない。
いよいよ「いいすとしいびいなす丸」が手を伸ばせば触れられるところまで来た。
ジョンヒョン。とうとうここまで来たぞ。
おまえの魂は俺が預かってやる。一緒に船に乗ろう。
何も信じてはいけなかったあの国で、おまえだけは信じてこられた。何も信じたくなかったこの国で、おまえはずっと俺の傍にいた。ガキの頃に食ったコウモリは美味かったよな、ジョンヒョン。この国に来てヤクザどもに贅沢な料理を随分振舞われてきたが、あの時のコウモリを超える食事には、結局ありつけなかったよ。
ジョンヒョン、一緒に帰ろう。
***