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中国人が見た日本:博多紀行その五~日本最古の禅寺、聖福寺(上)

2~3平方キロメートルの範囲に寺社が林立する博多に来ると、まるで南朝四百八十寺(なんちょうしひゃくはっしんじ)にタイムスリップしてきたかのような感覚を味わえる。 その真ん中には、いくつもの寺社が囲むように、ひときわ大きな寺院、聖福寺がある。

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聖福寺は建久六年(1195年)、鎌倉初代将軍・源頼朝の資金援助により、千光祖師・栄西聖人を開祖として建立され、後に鳥羽天皇から「仏生山第一禅洞」の額を授けられた。

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この日本で最初の禅寺は、栄西によって有名になった。 栄西は、前回紹介した聖一国師よりも前の鎌倉幕府初期に活躍し、1168年に博多から商船で西国(中国)に求道したのである。

栄西は明州(寧波)から上陸し、半年間、天台を巡り、同年、大量の経巻を携えて帰国した。 顕教と密教を修めた栄西は、特に密教に傾倒し、太流派と川流派の両方を受け継ぎ、密教の「葉上流」(建仁寺流ともいう)を開いた。

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それから約20年後の1187年、47歳の栄西は再び仏の教えを求めて宋に入り、赤城天台山に行き、万年寺で虚庵懐敞禅師から禅を学び、禅師の印可を受けて臨済宗の禅の教えを受け継ぐことになった。1190年、栄西は天台山で菩提樹の枝を取り、商船に日本へと持ち帰らせ、菩提樹を日本へ東伝した最初の人物となった。

1191年、4年にわたり南宋で留学した栄西は、虚庵禅師から信頼され、多くの貴重な品々を授かった。 帰国した栄西は、周囲の期待に応え、禅宗の普及に努め、日本における禅をますます盛んにした。

禅を興した栄西は、何度も誹謗中傷されたが屈しなかった。
1195年、博多に聖福寺を建立した後、日本最古の禅書籍である『興禅護国論』(全3巻)を著した。本堂の前には、広田弘毅の筆による草書体の「興禅護国」の文字が刻まれている。

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広田は福岡出身の政治家で、第32代内閣総理大臣であり、第二次世界大戦のA級戦犯で、1948年に絞首刑にされ、聖福寺に葬られた。「弘毅」は、「論語・泰伯編」の「士不可不弘毅」(士は以て弘毅(こうき)ならざるべからず)から来ている。広田と聖福寺には縁があり、弘毅という名もその中学時代の聖福寺の 東瀛老師を起源としている (続く)

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