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私は貴方の為に爪を黒紫に塗ったわけではない

3月某日。寿退社をする何某さんに会社から花が手渡され拍手と共に涙ぐむ何某さんは送られていった。花は全部菊の花で部長と私はあの縁起の悪い花を買ったのが誰かと調べたら新人でもないのに万年コピー機博士兼お茶汲み娘として有名な小幡さんであった。村上春樹でもないのに私と部長はやれやれと言い合って会社に戻ると月末の事務処理という戦場へ戻るのであった。

以上がオリビアがボブに聞かせた話の内容をギュッとまとめたものである。オリビアはボブに意見を求めたわけではないけれど、ボブは通年朴念仁なので自分なりのアンサーに辿り着こうとあがくので菊の花はひどいよと口にする。オリビアとボブは付き合って5年目なのだが、まだボブはオリビアと結婚したがるそぶりを見せない。正直言ってオリビアのボブに対する愛はとっくのとうに消えていて、何を言われても心が石のようになっている。仏花にしては華やかな色味だったから多分小幡さんには悪気はなかったと思うよ、オリビアは決して嫌いにはなれない小幡さんを擁護する。別に擁護したいわけではなかったけど、ボブの脱ぎっぱなしの靴下が自分の部屋のベッドの下に落ちているのに腹を立ててつい擁護してしまうのであった。ヘイ、ボビー、哀れな奴。考えてみればこの5年、オリビアはボブと喧嘩という喧嘩をしてこなかった。多分、それが全部の要因なのだ。ボブは「常識」がないと小幡さんを常識側に立って満足気に批判する。アーカンソーの山奥でいつかしら孫の顔をみたいと正月に会う度に突いてくる教職員の両親たちの顔がオリビアの脳裏に浮かぶ。やれやれ、常識ね。それは5年も付き合って両親に挨拶をしたことがないボブにこそないものだった。それでもオリビアとボブは不毛な喧嘩はしない。喧嘩がないのと意見の交換ができないのは必ずしもイコールではないが、彼と彼女にとっては重大な「ズレ」の原因になっていた。心の優しいボブは多分ずっと夢の中にいる。これまでも、そしてこれからも。

考えてみれば、いや考えてみなくともいいのだが、ボブとオリビアの「ズレ」を強引に修正してきたのは紛れもなくセックスだった。ボブは狂気と常識のバランスに優れていて、頭脳明晰な狂人或いは彼岸に立ちながら鉄人レースに明け暮れる末期患者というような例えがしっくりくる変わり者だった。AIを強引に捩じ込まれた人造人間とでも言おうか。オリビアは芸術愛好家だからボブの狂気に魅せられ近づいたのだが、彼の毒気はしばしば強過ぎる傾向にあって、オリビアの手に余った。それでも蟹座の女の悲しさか、オリビアは一度守ると決めたことは守り続ける習性がありアーカンソーの山々に住む神々に見放されたとしてもボブの生き様を庇い続けた。ボブはオリビアの中で溺れる。オリビアはボブのおままごとに付き合う。ボブはオリビアを求めていなかった。ボブが求めたのはオリビアの肉体だけだった。オリビアの肉体はしなやかで頑丈、美しく気高い。ボブが入っていい聖域ではなかったが、ボブはアーカンソーの神々を怖れない。オリビアはボブの手に堕ちる。山底に幽閉されボブの常識(きょうき)が求めるあらゆる拷問に耐える。日が沈み星が出てまた日が昇る。そうやって5年。ボブとオリビアはセックスレスとは無縁の恋人関係を続けていたのである。

やれやれ、それでも始まりがあれば終わりが来るものだ。ドリフ大爆笑でもあるまいに、ボブはオリビアと別れ話をした後でCMの後もまだまだ続くよとばかりに唐突に言う。別れるのは承知した、それでも最後にもう一度だけオリビアを抱かせて欲しい。オリビアはしぶしぶ了承して、後でオリビアの家に来てセックスをすることになった。5年もの悪しき習慣に染まっていたのは何もボブだけではない。オリビアもボブに負けないくらいの性欲があった。ボブがオリビアの家にやって来る。ボブもオリビアもぎこちなく、まるで互いに触れたこともないような関係に戻ったようだった。それでもオリビアは蟹座の女としての矜持を活かし一度決めたことを遂行することにして、腰のひけるボブを強引に促してベッドに誘った。キスもなく簡易的な愛撫をした後でボブがオリビアの中に恐る恐る入ってくる。習慣とは不思議なものである。ボブの陰茎はそそり立ちオリビアの膣は充分に濡れていた。最終的にどちらも何もかもが最初から最後まで自分たちのものではないことをボブもオリビアも感じている。二人は別れた日に最後のセックスをしてボブは簡単なほど呆気なく、射精した。二人も服を着てから握手してハグをし、未来永劫一緒になることはないが、5年間変わらずにセックスをしたことを互いにアーカンソーの神々に感謝し合って別れた。

変人ボブと別れて数年後、オリビアは退屈な男と出会った。退屈な男はオリビアと退屈なセックスをした後で彼女の手をぎこちなく触りながらややくすんだ黒紫色の爪の色を茶化した。なんだか死んだ人みたいだね。オリビアは激怒する。蟹のように素早く手を引っ込めて、私は貴方の為に爪を塗ったわけじゃないわと言った。退屈な男は謝ってきたし大したことではないこともオリビアは理解していたけど、今日はもう帰って欲しいとはっきりと言う。男は文句を言いながらもとっくに終電の終わった世田谷の町に放り出される。男を追い出した後でオリビアはやれやれと言った後で湯を沸かしお茶を淹れる。それから自分の奥底に眠っていた記憶が蘇ってきて、けたたましく笑わずにいられなかった。確かに小幡さんの買ってきた変わり種の菊の花は鮮やかな色をしていて仏花ではなかったのである。

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