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老婦人の前に座る見えないご主人と、続く夫婦の物語

老婦人と長さん、朝の風景

運営していた温泉施設の話である!

飲食スペースには、今日も一人の老婦人が静かに朝食をとっていた。ここは朝風呂の前後に食事を楽しむ人々で賑わう場所だが、ぼくには彼女の姿はどこか寂しげに映る。

なぜなら、この光景にはかつてもう一人、彼女の前に座っていた存在があったからだ。

長さんと婦人の朝の習慣

婦人の席には、かつて大柄で無口な、いかりや長介に似たご主人が座っていた。スタッフ間では、親しみを込めて、ご主人を長(ちょう)さんと読んでいた。もちろん隠語でだ!

彼らは決まって朝風呂の開店から30分ほど経った頃に現れる常連客なのだ。シャキシャキと歩く一見強面の婦人、その後ろをひょこひょことついて入ってくるのが、ご主人の「長さん」だ。

フロントでそれぞれお気に入りのロッカーの鍵を受け取ると、婦人はさっさと脱衣場に消える。対照的に、長さんはいつもフロントの我々と一言二言会話を交わしてから入浴されるのが常だった。

このペースが彼らのいつもの風景であり、見慣れた姿だった。

朝の食卓、理想の夫婦像

風呂上がりも婦人の方が早い。二人分の朝食を注文し、でき上がった朝食を運んで自席に着く。そのタイミングで、まるで計ったかのように長さんが風呂から上がり、婦人の前の席に座るのだった。

朝食をしながらの二人の会話は、9割が婦人が話をしている。長さんは黙って彼女の顔を見つめ、時折相槌を打つ。日頃は強面でシャキシャキした婦人だけど、その光景の中ではどこか嬉しそうな表情を見せる瞬間がある。

遠目ながら、その温かさを感じることができた。

長さんの言葉、そして夫婦の絆

ある日、私は婦人が先に浴室に消えた後、長さんに聞いてみた。

「何十年も一緒にいて、毎日よく会話が続きますね」と感心しながら尋ねると、長さんは少し微笑んで、「わしが死んだら、あとは頼むで」と冗談めかして答えた。

その嬉しそうな顔を見た瞬間、ぼくは本当にいい夫婦だと心から思ったのだった。

長さんがいない朝

月日が経ち、婦人は一人で店に通い、いつもの席で一人朝食をとっている。

不思議なことに、私には空いている彼女の前の席に長さんが座っているように見える。彼女が食事をしている様子を、あの頃と同じように優しい目で見つめているような気がするのだ。そして、ふと長さんがこちらに視線を送ってくる。

「長さん、奥さんの話し相手は務まりません。でも、今日もちゃんと奥さんとの会話の場所は用意しておきましたよ」と私は心の中で語りかけた。

長さんは、まるであの時と同じように嬉しそうな顔をしてくれた気がした。

温泉と夫婦の幸せな日常

この温泉施設は、多くの人々の日常に寄り添い、小さな幸せの瞬間を提供している。

僕はこの店の仕事を離れたが、今でも老婦人と長さんのような日常の一コマが繰り広げられているだろう。

おふろ屋の仕事がどれほどの価値を与えているかを感じずにはいられない。

人がいる限り、おふろ屋があるがぎり物語は続くのだ!

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お付き合いいただければ幸いです。


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