見出し画像

あおもみじ


白杖の白状(こくはく)

 
 ゴールデンウイークの朝、青紅葉の鑑賞でもしよかと妻に誘われてでかける。

 程よく混んだJRの車輌は、日頃の通勤客の姿はなく、遊びに出かけるファミリーやグループで占めていました。

 吊り革につかまり、電車の揺れに身をまかせていると、目の前に座る5歳くらいだろう男の子の視線を感じました。不思議だが、弱視でも視線は感じるのです。

 どうやら、男の子は僕の白杖が気になるらしいようですね。

 白い杖は、目の見えない人が持つものと、教わったのだろうか、なにやら隣に座る母親に僕の存在を知らせているようです。

 男の子は、母親の膝に移り、母親の耳うち通り”座ってください”と、はにかみながらも、しっかりとした口調で僕に声をかけ、席を譲ってくれました。

 ”ありがとう!ふ〜助かった!”

 少し大袈裟気味に、男の子にお礼を云ってありがたく座らせてもらいました。

 男の子は嬉しそうな顔をして(見えないけど)母親に任務完了とばかりに、話しかけているのが感じられます。

 いつも、書いていますが、足腰が弱い訳ではないので立っていても平気です、フリーランスなので、疲れ切ったサラリーマンのようにクタクタでもありません。

 白杖を持っていますが、席を譲って貰う権利も、たまたま僕の前に座った人が僕に席をを譲る義務もないと思っています。

 ただ、見えにくくなった目で世の中を見ると、僕の白杖は、意外に人は見えていないのだなと云うことがわかります。

 見えないふりをしているのかな?とも思いますが、目に映っても見えていないと云うのが本当のところだろうなと、感じます。

 僕も、子供の頃はこの男の子のようだった気がします。そのせいか、成人してからも、お年寄りや身障者には積極的に席を譲ってきた自負はあるのですが、思い返してみると、席を譲った記憶はせいぜい数十回か、多分百回は下回るでしょう。

 確率論からすれば多くはないですよね。

 目に映る現実が、見えていない、これは身障者に対する目の向け方に限ったことではありません、全てに於いて言えることでしょう。

 子供の頃のピュアな心で、目の前に映る現実を解釈してみると、実はおかしなことだらけ・・・

 見えないものが見えれば、世の中は今より少しは優しくなるのかもしれませんね!

 そんなことを考えながら、紅葉が有名な京都の禅林寺永観堂につきました。

 新緑の青い「もみじ」も、清々しく綺麗なのですね。赤く色づくには、春から夏にかけてしっかりと日光を浴びて青い時代を過ごす。

 赤いだけが「もみじ」じゃないね、見えにくい目で堪能して来ました。 



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?