60代になったら考えるに値する死生観
最後の日、父は末期癌による痛みの中ベッドで悶え続けていました。
医師に呼ばれ病室を出て診察室に行きました。
“山場は今です。モルヒネ投与を増やせば楽になりますが、もう意識は戻らないでしょう。これ以上苦しい思いはお父様にとって酷だと思います”
担当医にそう告げられた私は、家族が集まるまで数時間、なんとか命だけは繋いでくださいとお願いして病室に戻りました。
もはや限界で、規定値の投薬では苦しみから逃れることのできない状況です。
厳しい決断をしなければならない現実を呪いました。
部屋に戻った私にベッドの上で、父は喘ぎながら“逝きとうない”と呟きました。察していたのかもしれません。
その言葉はショックでした。父は生きたかったのです。最期を悟りながら闘っていたのです。
人間の最期は、運命を受け入れ、人生を振り返り、静かに眠りにつく、そんなイメージを
勝手に抱いていました。
「なんだよ、オヤジ、生くさいこと言うんだな」
涙がとめどなく溢れました。
死生観とはなにか
いきなり湿っぽい話で恐縮ですが、今回は死生観について考えてみたいと思います。
死生観とは、死ぬことと、生きることに対する考えかたのことです。よく言われる言葉に、死ぬ時に後悔のないように生きる。というのがあります。
父が死の間際に“逝きたくない”といったのは、後悔していたからでしょうか?息子としてはそうではないと信じたいです。
死ぬのが惜しいくらい、この世は良いところだったのか、まだまだやり残したことがあったのか、未知の世界が不安だったのか、そもそも未知の世界の存在を信じていなかったのか・・・
父が死についてどう考えていたかはわかりません。
死生観とはどう生きるかと言うことである
一度だけ、父と死について呑みながら語った記憶があります。父は以前運転していた車を大破する大きな事故を起こし、救急搬送され生死を彷徨った経験がありました。
手術を受け、2日ほど意識が戻りませんでしたが、奇跡的に回復し、その後後遺症もなく日常生活に復帰しました。
生死を彷徨うなかで、臨死体験をしたと言うのです
手術台で手術を受けている自分の姿をみたと言うのです。
普段は宗教的なことや、神秘的な話をする人ではありませんでした。
生かされたんだな、俺は!この時そう語った言葉が父の死生観なのかもしれません
どう生きるかを決めた人生と決めていない人生
話は変わりますが、思うことあって今年の初めから毎月家の近くにある禅寺で坐禅をくみに行くようになりました。
壁に向かって座り、40分はど無心になります。壁に向かって座るのは禅の中でも曹洞宗の作法です。
曹洞宗の坐禅は只管打坐(しかんたざ)といい、ただ座る、そのことにのみ集中する修行になります。
ただ座るとか、無心になるとか、簡単なようでそう簡単にはいきません。
無心になるとはどういうことなのか、和尚の説法によると石になるようなものだと教わります。
雨が降ろうが、風が吹こうが、ただそこに存在する。石は過去がどうだったとか、この先どうしようかなどは考えません。暑い夏も、寒い冬も、石のようにただそこに己が在るだけの状態になることです。
禅僧は日々の修行の中で現在に感謝をし、ありのままの現在を大事にすることを暮らしの中で徹底して自問自答します。それこそが生きることなのです。
一休和尚の死生観
「世の中は食うて、稼いで、寝て起きて、さてその先は死ぬるばかりぞ」
この言葉は一休和尚の有名な言葉の一つです。
何者でもない一個の自分が今現在ここに存在している、頭で理解したり、意味づけをするのではなくただそれを感じる、その連続が生きることだということです。
死ぬ時に後悔しないし、現在も後悔しない。未来に期待もしないし、もちろん死後のことなんて期待しない。
一休和尚の言葉にはそういったカラッと乾いた潔さのようなものを感じます。
樹木希林さんの死生観
「生きるのも日常、死んでいくのも日常」
2018年、75歳で亡くなった樹木希林さんの死生観として有名な言葉です。
樹木希林さんは、長年がんを患いながら、そして左目も失明という状況のなかで多くの映画、ドラマ、ナレーション、C Mに出演された大女優です。
破天荒な旦那、内田裕也を夫にもち、コミカルからシニカルまで独特の雰囲気で演じる希林さんの生前のインタビューなどを拝見すると、どこか達観した強さを感じていました。
時にはマスコミを賑ぎわせた波乱万丈の人生。大女優でありながら偉ぶらず、飄々と気負いのない雰囲気。しかし、浮ついた質問や接し方をする人には厳しかったそうで、レポーター泣かせでもあったそうです。
禅僧でありながら、俗っぽく人間臭さと厳しさをあわせ持つ一休和尚と被る気がします。
死に直面してわかる死生観
さようなら、また逢おうね!
再度父の最後の日に話を戻します。(すみません)
規定値以上のモルヒネを投与された父の意識はなくなり、眠っているようでした。母親と兄弟が集まりました。
病室の中は何十年ぶりかの父と母と兄弟だけの空間になりました。最後の灯火を燃やしている父の前で最後の団欒。思い出話がポツリ、ポツリ。
おかしな話ですが、とても穏やかで満たされた幸福な時間でした。(但し、親父がどう思っていたかはわかりません!)
そんな満たされた時間もそう長くは続きません、父が危篤状態になりました。
心電図の心拍数を知らせる音の間隔が少しづつ遅くなります。
とても緊迫した状況の中で、母が突然
「お父さん、さようなら。また逢おうね」と声をかけると
妹が間髪入れずに
「母さん、まだ早い!」
と突っ込みを入れます。
そもそも、我が家はしっかりものの父とうっかりものの母という構図の家庭でした。
そのやりとりが漫才のボケとツッコミのようで、張り詰めた空気が和らぎ、死にゆく父を囲んで、なぜが笑えてきました。
泣きながら、爆笑。悲しいのに、可笑しい。
まったくヘンテコな家族の光景!
呆れたのか、満足したのか、やがて父は永眠しました。
母の死生観
父のことに触れてきましたが、母についても少し言及しておきます。
父の今際で遺憾無くとぼけた雰囲気で場をなごませてくれた母は、50半ばで腎臓を患い、長年透析を行いながら命を繋ぐ生活をしていました。
そんな母の晩年の口癖は「死にゃあせんよ」でした。(広島弁です)
常に死が隣り合わせにあった母は、父と比べるとどこか死について達観していた気がします。
そんな母の口癖を私は、
「人間そう簡単に死ぬるものじゃない!」というふうに鼓舞する言葉として捉えていたのですが、最近は少し解釈が変わってきました。
「死ぬるは生きるの延長線上にある!」
ひょっとしたら元々楽観主義だった母は、長い闘病生活の中で死生観をそのように捉えていたのではないでしょうか。
父より長生きはしないだろうなと思った母は、父を見送ってから2年後、施設のベッドで急な危篤状態となり、そのままひっそりと旅立ちました。
こらは全くの想像に過ぎないのですが、「逝きとうない」と生に執着した父、対象的に「生きるも死ぬも同じこと」と眠るように逝った母、ともに最後は死生観を体現したように感じます。
父の享年は69歳、母の享年は68歳、人生100年時代にしては二人ともいささか早い気がします。
まもなく還暦となる年ですが、今、この時を後悔しない人生を歩みたいと思っています。いつ終わりがきても後悔しないためにはそれが大事だと思うからです。
できれば、元気で両親の生きた年齢をひと回りくらいは超えたいと思います。