ドナー登録を考える:「和田移植」の闇を考察しておく。
日本の臓器移植が他の先進国と比べて遅れていると言われる要因の一つに、「和田移植」の影響があると言われている。
日本で初めて行われた、心臓移植手術には、多くの疑惑があり、刑事事件として告訴された。
不起訴となりましたが、結果的に臓器移植に対するアレルギー反応となった。
疑惑として問題視されているのは次の3点である。
1、 ドナーの延命措置は誠実になされたのか
2、 ドナーは死亡していたのか、脳死とは何か
3、 レシピエント(移植患者)の選択は適切だったのか
本記事では、我が国の臓器移植の歴史を考える上で、外すことのできないこの事件についておさらいをしておこうと思う。
和田移植事件とは
「和田移植事件」とは、1968年、臓器移植法が制定されえる30年も前に、札幌医科大学で循環器外科の和田教授のチームで行われた日本初、世界で30例目になる脳死者からの心臓移植手術のことである。
海で溺れ、重篤となった当時21歳の男子大学生が、脳死とみなされ、当大学附属病院に心臓弁の疾患で入院をしていた18歳の男子高校生に移植されたのだ。
一旦手術は成功した様に見えたが、83日後に移植を受けた高校生も死亡をした。
ドナーとなった大学生の救命はなされたのかという疑惑
溺れた大学生は、最初現場近くの病院に搬送され、懸命の救命措置を行うことによって、一旦は回復をした。救命にあたった医師は命に別状はないと判断し、引き継ぎを病院長に行い帰宅。
担当医が帰宅直後に容態が悪化し、引き継ぎをおこなった院長は高圧酸素治療が必要と判断し、設備のある40キロ離れた札幌医科大学に転医した。
この時代に、溺者に対する高圧酸素治療の前例はなく、しかもそれを行うべきは内科チームが通常だが、待機していたのは胸部外科チームであった。
後に判明するが、高圧酸素治療は行われず、救命措置の内容や、高圧酸素治療の有無に関しては、その後の調査で供述が二転三転している。
移植手術を開始した段階では、ドナーは生きていた可能性が極めて高く、死亡判断は限りなく黒に近いと推察できる。
このため、最初から臓器移植ありきであったのではないのかという疑惑が感じられる。
心臓移植の場合、鼓動が停止する前に心臓を取り出し、移植をすることが手術の成功の確率は高くなる。
しかし、ドナーとなるべき人間が、生きる可能性がある限り、医師は救命に全力を尽くすべきなのだ。
でなければ、ドナー登録をしていた場合、摘出することが優先されるとなると、ドナーとなることを希望する者はいなくなるだろう。
ドナーである大学生は本当に脳死であったのかという疑惑
「和田移植事件」が起きた当時は、法的には脳死という概念はまだなかった。心臓が動いているのにも関わらず、心臓を摘出したとなると殺人となる。
30年後臓器移植法が制定され、「脳死」という新たな死の概念ができるまでは、移植によってドナーの生命に影響のない「生体移植」か、心肺停止による心肺停止をした者からの「死体移植」しか認められていない。
考え方を変えると、「脳死」という「死」は、臓器移植を行う医師を殺人者にしないための、新たな概念で法律化したものなのだ。
法律で定められた脳死の条件は
一「深い昏睡にあること」
二「瞳孔が固定し一定以上開いていること」
三「刺激に対する脳幹の反射がないこと」
四「脳波が平坦であること」
五「自分の力で呼吸ができないこと」
六「これらの5項目を行い、6時間以上経過した後に同じ一連の検査をすること」
の6項目で判定される。上記は杏林大学の竹内教授によって提唱されたもので「竹内基準」と呼ばれている。
この基準がない当時、和田教授はドナーの死の判定をどのように行ったのだろうか
供述は以下の通りだ
・血圧測定不能の患者が運ばれたので、高圧酸素療法の処置を行なった
・その後、3時間にも及ぶ蘇生術を行ったが効果はなかった
・心臓は停止した
・動向は完全に散大、対光反射消失
・全身に強度のチアノーゼを認める
・肛門からは便が出ている
・脳波は平坦となっていた
・生命微候の消失
※チアノーゼは、血液中の酸素の不足が原因で、皮膚が青っぽく変色すること
※生命微候は、脈拍や呼吸、血圧、体温などの総称で、生命の維持の可否のサイン
これに対して、さまざまな調査の結果
・高圧酸素療法は実施されていなかった
・記入すべき救急台帳が記入されていない
・計測したとされる心電図の紛失
・脳波と血圧記録が確認できない
・脈拍と心音を確かめた客観的資料がない
・ドナーとなった人物のカルテには、治療方針とされる記録が読み取れず、その内容も事後改ざんされた可能性がある。
・重要な治験となるべきドナーの遺体は、解剖を受けずに火葬されている
・レシピエント(移植患者)の胸部回復は、ドナーの死亡時刻とほぼ同時刻には既に着手されていた
このような事実が解明されることによって、和田教授の供述は、極めて疑わしいと思わざるを得ない。
レシピエント(臓器移植者)は適切だったのか
この手術には、もう一つの大きな疑惑がある。
それが、移植を受けて一旦は成功に見えたレシピエントが、本当に心臓移植が必要な患者であったかどうかという問題だ。
レシピエントであった高校生は、心臓に障害があり、札幌医科大学に入院をしていたが、当初担当に当たった内科チームは、心臓の一箇所の弁を人工弁に置換する必要があるとして、胸部外科へ引き継ぎしている。
ところが、胸部外科で作成されたカルテには、内科に知らされないままに、心臓移植治療と記されていた。
その理由について、和田教授は、3箇所の弁の交換が必要で、それらを同時に行うには危険があるとしている。内科チームの見立てとは違った見立てを主張。
そこで、レシピエントから摘出された心臓を証拠として提出するように命じられるが、不思議なことに、証拠となる心臓は3ヶ月以上行方不明で提出されない。
日本初の心臓移植手術で摘出した心臓を紛失する訳はないが、この時点でやはりかなり怪しい。
暫くして見つかったとして、提出されたホルマリン漬けにされたレシピエントの心臓は、心臓本体とつながる4つの弁がことごとく切り離され状態であった。なぜ、その必要性はあるのかが疑問視される。
さらに、3つの弁は心臓本体から切り離されたものと確証が持てるものだったが、一つは明らかに他人のものである可能性が高く。証拠隠滅として改ざんされた可能性を示唆する。
やはり、この移植手術には仕組まれたものを感じられる。もし、移植を必要としない患者をレシピエントに仕立てあげたなら、レシピエントに対する殺人行為となる。
和田移植が残した臓器移植の問題
以上が、「和田移植」の疑惑です。
和田教授は、結果的には嫌疑不十分で不起訴となりました。
心臓移植を受けた患者が生存中の83日間は、和田教授は日本で初めての心臓の移植を成功させた奇跡の医師として世間からも持ち上げられていたと言われています。
その後、患者の死によってその立場は変わりました。
数々の疑惑に世間は震撼し、世界では標準となる「脳死」という概念も、臓器移植という概念も我が国ではタブーとされ、法律で認められるまでには30年以上の時間を必要としたのです。
これだけの疑惑がありながら、不起訴となったのは和田教授を有罪にすれば、日本では永遠に臓器移植を容認できない国になる、そんな危惧から影の力が働いたのかもしれません。
臓器移植法が制定されてから26年、先日日本で1,000人目の脳死判定のドナーからの移植が行われました。
移植大国のアメリカでは、年間に臓器提供をする人は14,000人いると言われていますので、隔世の感は否めません。
だからといって、脳死の考え方や、臓器提供が絶対に正だとは言い切ることはできないでしょう。
「和田移植」は一人の医師の功名心から行われたものか、それとも日本の医療に世界と同じように新たな風をもたらすために行われたのかは知る由もないです。
ただ、一つ言えるとしたら、臓器移植をタブー視せずに、一度は自分の頭で考え判断してみる。関心を持つことだと思います。