知ってましたが?「銭湯」は、あなたを救うお寺のような存在なのよ!
広い空き地の真ん中に拾った棒切れで大きな楕円を地面に描いた。その時、僕の頭には不思議な光景が浮かんでいた。この楕円の中に多くの人々が集まり、彼らは裸で穏やかな顔をしている。冗談のような夢物語だったが、僕はそれを現実にしようとしていたのだ。
1年後、僕ははその場所に立っていた。想像したとうり男たちは裸で幸せそうな顔をしている。彼らはお金を払って、自ら裸になるという不思議な状況を受け入れていたのだ。誰もがリラックスし、楽しんでいる様子が印象的だった。
夢の実現と湯船からの眺め
この出来事は今から25年前の話だ。あの時の光景は生涯忘れられない。目の前の露天風呂の男たちだけではない、直接見ることはできないが壁越しに聞こえてくる女性たちの笑い声で、彼女たちも楽しんでいることが想像できる。
そして、大勢の裸の人たちの中で、一番喜んでいたのは唯一裸でない僕だったのだろう。自分が手がけた露天風呂で、皆が裸で寛いでいることが本当に嬉しかった。
こうなったら、「おふろ教」の僧侶にでもなるかと心に決めた瞬間だった
おふろ教は裸で平等な世界
おふろ屋は特別な場所である。年齢や収入、地位などすべてを脱ぎ捨て、裸で他人と同じ湯船に浸かる。それだけ無防備な状況にもかかわらず、人々はリラックスし、笑顔で「極楽!極楽!」と声をあげる。そこには不思議な安心感と平等がある。
この国には、そんな「おふろ教」の寺院ともいえる銭湯が多く存在する。銭湯は、ただの風呂場ではなく、平和と安らぎの象徴であり、人々が心からリラックスできる場所んなのだ。
布教活動としての銭湯
僧侶となった私は、布教活動として銭湯の魅力を広め続けている。銭湯には実にさまざまな人々が訪れる。日々の疲れを癒しに来る者、悩みを抱えた者、健康を願う者。裸の状態では誰もが同じ人間であり、本音をさらけ出し自分と向き合う場所である。
おふろ教の教義は「人間裸で皆おなじ」
唱えるお経は「I LOVE ゆ」。
銭湯は平等の象徴
裸になれば、誰もが平等であり、湯船につかることで心も体も解放される。「裸になることで人は自由を知る」、銭湯こそがその自由と平等を体現する場所だ。私は今後も、「おふろ教」の僧侶として、その平等の教えを広め続けていきたい。