タケのこと
猫は守護動物のように思っている節がある。
と「オフトン」の時に書いて、タケという猫のことを思い出した。とても面白い猫だったので、続けて書いてみようと思う。
タケを見つけたのはバイトの帰りのこと。何のバイトだったかは覚えてないけれど、電車を降りたのはもう23時過ぎてたと思う。武蔵小金井駅を出て南口商店街を歩き始めると小さな声がした。この時間の武蔵小金井なんて帰宅する人がたくさん足早に歩いているから、ざっざっという足音にあんな小さな声はあっという間に掻き消されていくのだけれど、確かに聞こえる。流れに逆らって立ち止まり、微かな声を探して行くと、小さな中華食堂とカメラ屋の間の本当に細い建物と建物の間に、目ヤニでぐちゃぐちゃになったガリガリの子猫が小さく座ってミィミィと鳴いていた。
その当時うちにはメリーさんという洋猫が一匹いた。私の母は猫が大好きである。メリーさんは新聞の「猫あげます」欄に載っていた血統書つきのヒマラヤンで、母はいつか猫を飼いたいといつも情報集めをしていたっぽい。このヒマラヤンの子猫に何かピンときたようで、連絡嫌いな母が珍しく立ち上がり、私と母で飼い主の家に言った。私が多分小学校3年生の頃。都心のマンションの上階の住まいで、高いところから眺めた東京都内の景色を覚えている。飼い主さんは綺麗な若い女の人で、爪がめっちゃ長くて真っ赤だった。私たちがもらうことになった子猫に「じゃあね、元気でね」と真っ赤な唇でキッスをした。
メリーさんはとてもおっとりとした猫だったので、その後何匹か私が拾ってきた猫ともすぐにうちとけ、あちこち舐めてやったり、やさしい猫だった。が、私が拾ってきた猫は、結局私が面倒見きれず、適当にやってどの子も逃げていってしまったので、母もいい加減、面倒も見れないのに拾い猫はもうやめろときれ始めていた。
しかし、商店街で見つけたこの猫は目ヤニもひどいし、小さいし、放っておけない。何しろこれだけ人が歩いているのに誰も目を止めず、私が見つけてしまったという運命、そして謎の使命感。とりあえず猫を拾い抱きかかえ、家に向かった。家に帰るまでに猫を連れてきた言い訳を考えねばならない。私が飼いたいといっても説得するには相当の覚悟を見せなければならない。そしてその約束を私は果たせるのだろうか。疑わしい。こんな時、姉は兄弟の顔を思い浮かべるのだ。まず弟の純を結果先頭に立たせることにする。その頃純は高校生。動物が大好きで、いろんな動物をとても上手に飼っていた。今はそれが高じて獣医をしている。帰ると純を呼んで、「家の前で子猫が鳴いてた」と子猫を見せた。案の定、純が「これは可哀想だ、目を拭いてあげよう」と家に猫を入れる。母がやってくる。私は「家の前で鳴いてたら放っておけないよね。この辺の猫だろうし、目が大丈夫になるまで面倒みてあげようよ。ガリガリだしこのままじゃ死んじゃうかも。治ったらまた外に出せばいいじゃない」ともっともらしい事をいう。純が「そうしてあげたほうがいいんじゃない」と後押し。母は弟の言動に弱い。妹のめぐも来て、「かわいい〜チイチャーイ」と騒ぐ。母は「それならみんなでやりなさい、私は何にもしないから」という形のOKを出した。
1週間くらい経つと目ヤニはきれいになり、ご飯も食べて少しぽっちゃりしてとても愛らしく、母はすっかりこの猫と仲良くなってしまう。もともと猫が好きなのだから仕方ない。それでタケちゃんはめでたくうちの二匹目の飼い猫になる。私はうまいことやったと思っていたが、今考えると、実際のところ母にはバレバレだったのではないかと思う。
その当時一緒にバンドをやっていたボーカルの子が、うちに入り浸っていた。一回くれば2.3日はうちに泊まって、当たり前のように過ごしていたので父が「あの子は居候か?」と苦笑いしたのを覚えている。そんな彼女が子猫をピアノの上にのせ、歩いて弾いた調べが現代音階っぽく、「武満徹じゃん、たけみつだ!」と猫を勝手にたけみつと呼び始めた。私はメスなんだからそんな名前やだと言ったけど、居候があんまり連呼するので浸透し始めてしまう。私も弟も母も妹もそれぞれ希望の名前があったので、こうなったら猫本人に決めてもらおうと、小さな紙にそれぞれが名前を書いて投げ、一番初めに猫が飛びついた紙の名前にしようということになった。10個くらい投げたかな。飛びついた紙に書かれていた名前は「タケミツ」だった。みんな笑った。タケの本名はたけみつ。武満徹のたけみつだ。
飛びつくといえば、タケは紐を投げてもらうのが大好きだった。朝5時くらいになると、ほっぺたをカリカリされる。眠ぼけまなこで枕元を見ると、紐が4本も5本も並べてある。それも結構きれいに。半分目も開かないままその紐をいろんなところに投げる。タケは飛んでいった紐に走る。私は眠いのでまた眠る。するとしばらくしてまたほっぺをカリカリされる。目を開けるとまた拾ってきた紐がきれいに並んでいる。眠い〜と言いながらあちこちに投げる。そんな事を3回くらい繰り返しているともうこちらも目が覚めてしまう。目覚ましいらずだった。猫というものは投げた紐に喜んで飛びつくが、大抵はそのまま勝手に遊んで飽きたら紐は置き去りにされる。拾ってきてもう一度投げてという猫はこの後にも先にもまだ会ったことがない。
拾った時に栄養失調だったのもあってか、タケはあまり大きくならなかった。黒い毛に茶色と黄土色が混ざった錆色の猫だった。眼差しが独特で、こちらのいう事をすっかり理解しているように思えた。母との絆が深く、母が病気になってからはすっかり母に寄り添った。ある日、母がお腹が痛くて寝込んだ。退院してきたばかりで、とても心配だった。するとタケが母のお腹の痛いところに乗っかった。母は痛いから退いてと何度か退けていたが、何度も乗るのでそのうち諦めそのまま眠った。起きるとすっかり腹痛は治っていて、その代わりタケがゲッと吐いた。母は自分の悪いところをタケが吸い取ってくれたのだろうかと心配した。タケを見つめていると何故か「オリンポス」という言葉がよく浮かんだ。それでタケが大きな杖みたいなのを持って、白い布を纏っているイメージが湧く。そういう神様みたいな猫なのかなと思っていた。人付き合いがあまり得意でない母にとってはタケは唯一無二の存在だった。そのうち母の容態は悪くなり、治療のために高知の病院に入院した。家族が交代で高知の病院に付き添いに行った。そこでも遂に良くならず、最後にはホスピスに入院した。ホスピスは市内にあって、とても穏やかないい場所だった。母は少し気持ちが落ち着いたようで、ある日「タケちゃんに会いたいなあ」とぽろっとこぼした。「でも会ったら泣いちゃうからやっぱやだな」と付け足した。これはめちゃめちゃ会いたいだろう。しかし当然この病院に動物は入室禁止である。だけどタケだって絶対母に会いたい。妹と相談してもちろん内緒で連れてくることにした。買い物カゴのようなものに入れて、そそくさと、個室だから部屋に入ってしまえば大丈夫。病院の匂い、知らない場所で若干タケはそわそわしていたが、状況は飲み込めていたようで鳴き声を上げることはなかった。母はとても喜んだ。あんまり長くはいられなかったが、数ヶ月ぶりに会うことができた。家に帰ってもタケはいつも通りだったけど、いつも通り全部わかってるという顔をしていた。
このあと、数週間で母は亡くなる。その日の早朝、ホスピスにいた父から母の容態が悪いので、すぐみんなきてと電話が来る。朝6時くらいだったか。みんなを起こして出かける準備をしていると、妹が「タケどいて〜」と騒いでいる。見ると妹の膝にタケが乗っかって動かない。「ごめんね、今日は連れていけないんだよ。」と妹は言った。母がもう死んでしまうのがわかったのだろう。いや、みんなわかっていた。わかっていたけれどまだ大丈夫と思いたかった。タケの行動を思うと今は泣けてくるが、当時は泣く暇はなかった。泣いて立ち止まったら崩れて戻ってこれなくなってしまいそうで、毎日毎日泣くことなく走り続けた。タケを何とか引き剥がして私たちはホスピスへ向かった。
その後、うちの家族は母という家の柱をなくし、ズタボロになるが、どうしたらいいか必死に考え、たくさん物を捨てたり、家を改装したり、何とか新しい形を模索した。その間、もちろんタケも一緒にいた。やがて私は結婚し、父にも新しい奥さんができた。新しい奥さんはタケのことをよく面倒を見てくれて、タケの最後も彼女が看取ってくれた。涙を流しお別れしたよと父が言った。タケは12歳くらいだった。
タケは母と今も仲良くやってると思う。