一週遅れの映画評:『映画 ふしぎ駄菓子屋 銭天堂』その世界から抜け出すための。
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『映画 ふしぎ駄菓子屋 銭天堂』です。
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ちゃんと面白かった、面白かったんだけど気持ちとして物足りなさが残ってるんですよね。なんだろうなこの気持ちは。
とりあえずめちゃくちゃ良かったのは、駄菓子屋店主の紅子さんで。彼女は原作からして、恰幅の良い中年女性で、品の良さと美しさのある、親しみやすいけど凛とした雰囲気は崩れないっていう、こうフィクションでは珍しいタイプのキャラクターなんですね。私の映画評だとほっとんど役者に対して言及することって無いんですけど、これはね演じた天海祐希がマジでバッチリはまっていて。この紅子さんの再現度だけで「あっ、ちゃんと『銭天堂』をやってくれるんだな」って安心感があったんですよね。
そもそも『銭天堂』は、”幸運”を持ったお客さましかたどり着けない不思議な駄菓子屋で。そこでは特別な力を持った駄菓子が売っている、例えば食べただけでスイスイ泳げるようになるグミとか、家事をそれとなく手伝ってくれるゴブリン(これモンスターじゃなくて妖精の方のゴブリンね)が生まれる卵とか、あるいひとときだけ会話する相手が目の前にあらわれる紅茶とか……それはお客さまの欲望を叶えるためのものなの。
だけどそれぞれの駄菓子には使い方にルールがあって、それを守っている限りは欲望を叶えてくれるけど、きまりを破ると手痛いペナルティが待っている。まぁよくあると言えばよくある設定ではあるじゃない、ミステリーゾーンやドラえもんであったりアウターゾーンであったり世にも奇妙な物語であったりさ。ただ『銭天堂』はそういった作品の中ではわりとハッピーエンドが多い方だと思うのよね、それこそ半々ぐらいの割合で「めでたしめでたし」になる感じがあるんですよ。全部見てる/読んでるわけじゃあないから体感でしかないんだけど。
そもそもこの『銭天堂』と紅子さんは幸運なお客さまに、ちょっと手助けしてくれる駄菓子を売るだけで、それで幸福になるか不幸になるからお客さま次第。銭、つまりコインのように幸も不幸も裏表って語るのね、だから「半々」って体感になるのは、むしろ作品が見せたいものをちゃんと見せれている証明でもあると思うんですよ。
でね、今回の劇場版だと出てくる駄菓子はおおよそ8つで、結果的に4:3:1で良かった:悪かった:不明(作中では語られない)みたいな感じで確かにほぼ半々にはなっている。なっているんだけどぉ。
やっぱね映画としてパッケージする以上はどうしても「ダメでした、不幸になりました」で放り出すことはなかなか難しいんですよね。だから駄菓子の使い方を間違えて不幸な結果になってしまった人たちにもちゃんと救済がある……というかストーリーの大きな流れとして「そうやって不幸になってしまった人をどうフォローしていくか?」が中心に据えられてしまうんです。
もちろん自業自得で悲惨な目に会うけど、そこから気持ちを入れ替えたり、優しい友人の協力で持ち直したりする。それはすごく良いことなんです、良いことなんですけどぉ。
う〜ん、なんかね、『銭天堂』自体が持つ弱点というか問題点がめちゃくちゃあらわになってるんですよね。簡単に言ってしまえば「公正世界仮説を強化しすぎる」ってことなんですけど。
もともと『銭天堂』自体は短いストーリーを紡いでいく構成になっていて、基本的にはひとつの駄菓子でひとつの出来事を描いている。話が進むに従っていままでの登場人物たちが出てきたりはするんですけど、その基本設計は維持されているわけです。これはアニメ化されても同じで。だからその短い物語として繰り返される起承転結と、良いも悪いも紙一重のオチがスッと飲み込める。
だけど映画としてそれを90分のストーリーに仕立て直してしまうと、伝えようとするメッセージが露骨になってしまう。ルールを守れる人は幸せになって、約束を破る人間は不幸になる。適度な欲望は人生を切り開く原動力になるけど、欲深すぎると生活が崩壊していく。友人は助けになるけど、孤独になるとどんどん良くない方へ向かってしまう……。
子供向け作品として、ある種の寓話的にそういう物語が必要だってのは良くわかるんです。私だって小学生とか相手に「世界にはゴロっとした事実だけしかなく、お前の行いの良い悪いなんてほとんど無意味だ」みたいな、冷笑的って今なら言えばいいんスかねw そういった視界や向き合い方を提示したくはないんです。
だけどやっぱ子供時代の公正世界仮説から、どこかで抜け出さなくてはいけなくて。そのための大事な役割の一端を「フィクション」というものが担っていると思っているんです。だからなぁ、ここまで「良い行いをすると、幸せになりますよ」みたいな感じでゴリ押しされると、そういうのはもういいのよ……ってなってしまう。特に『銭天堂』みたいな、ちょっとビターなお話も描ける設定でやられてしまうと「あなたの役目はそれでいいのか?」って気持ちをどうしても抱えてしまうんですよね。
最初に言ったように、一番重要な紅子さんの描き方はマジで現在の邦画として考えられる大正解だったし、CGのレベルも高い。主に登場する子どもたちの演技も「最近の子役ってすげぇなぁ」と感嘆するぐらいで。すごく見やすい、良い作品ではあると思うんです。
それだけに、この見やすさで「いつか抜け出さなくてはいけないもの」を強化してしまいすぎること、その恐ろしさに『銭天堂』としての物足りなさを感じてしまいましたね。最後に『銭天堂』でのヴィランであるヨドミの扱いを変えるだけで、だいぶ違ったと思うんだけどね。
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次回は『劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師』評を予定しております。
この話をした配信はこちらの20分ぐらいからです。