高校で学んだ西洋思想、陥る極度の個人主義
自分の気持ちや考えを整理したくて書くことにした。僕は自身の考えについて言葉にするのは割とできるが(論理的とは限らない)、感情については大変苦手である。自分の感情にも、合理的で倫理的な理由を求めてしまう。今回は完全に独り言だ。
ただ、僕の失敗が誰かの一助となったとしたら、僕の失敗にも意味があるのかもしれない。
黒船、個人主義(?)の襲来
僕は高校に入学するなり、国語や倫理の授業で様々な思想を教えてもらうという恵まれた環境に身を置けた。しかし知識も思考力にも乏しい私は(今も変わらずであり、自虐などせずに学ぶべきなのは重々承知)、押し寄せる近代思想をうまく処理することができなかった。(まあ高校の範囲ではあるが、そこそこちゃんと勉強したのでかけがえのない知識として残っているのも確か。)
さらにコロナによる自粛で内省的な性格が浮き彫りになり、持て余した時間で夏目漱石の『こころ』や、所詮言葉では分かり合えないという主張がたびたび出てくる『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』にはまった。結果として、言葉は信用できないものであり、他者と分かり合うことは不可能であり、結局は個人で生き抜くしかない、という如何にもな高校生が出来上がった。こじらせすぎである。オワタ \(^o^)/
大学入試が控えていることもあり、生徒とは違う学生というものに憧れ、自律した人間にならなければ、自由を主張する代わりに責任を持たなきゃ、と背伸びした。
幸いにも冷笑的にはあまりならず、常に他者への尊重を忘れなかったが、個人主義は精神を蝕んでいった。どこにも帰属意識が持てず、付き纏う孤独を忘れることができないのである。自室にこもってひたすら勉強した。同級生に関心を向け、話したり遊んだりするべきだったと未だに後悔する。
脱こじらせた個人主義に向けて
大学生活が始まり、勉強の強迫観念から逃れ、睡眠時間を十分に確保した。また高校三年で精神の不調を経験し、自分の脆さを目の当たりにしたためか、自分自身の状況と自分の思考を切り離し、冷静に俯瞰することができるようになった。そこからは精神的に余裕が生まれた。友人にも恵まれた。
完全に分かり合えることは滅多にないが、友人のおかげで言葉を尽くすことで歩み寄ることができると知った。人に頼ってもいいことを知った。人のために動くことも悪くないと思えるようになった。
相変わらず個人主義的な傾向はやや強めであり、帰属意識を持つことは難しいし、付き纏う孤独は薄まることを知らないが、他者と向き合う方法を少しずつ学んでいる。何が言いたいかというと、悲観的になりがちなのは瓦いけど、少しは気の許せる人に恵まれるよと、いつかの僕に伝えられるようになったのである。(相変わらずこじらせてるぜ✨)しかも最近は哲学対話に参加して自己開示し、他者の意見をくみ取る努力をするほどだ。
だから、もしこの文章を読んだ人がいるとすれば、信頼できる人に少しだけ歩み寄ってみるのもいいかもしれない、と伝えよう。
こじらせた人の話などはよく冷笑の対象にされるし、開示しづらい。でも、確かに当時の(今でも)自分にとっては深刻な問題だった。そのため文章にすることで供養を試みる。
反省
自分のこととなると支離滅裂な文章になってしまう。正直あまり読む価値のない文章だろう。ただ、私の人格はこんな風に形成してしまった。もう変えられないよー
以上、自己満足のための自己開示でした。さも希望に満ちたように書いてるが、今は孤独死よりも孤独に生きていかなければならない現状が恐ろしいです。
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