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山田方谷の改革(その2)

3.産業振興

 ここでは、「産業振興」についてご紹介します。この分野は、企業の大小を問わず、現代の経営にとって示唆に富みます。それは、経営が自社を取り巻く状況を踏まえた利用可能な資産・知的資産の組み合わせであるからです。山田方谷の取り組みを知的資産経営として考えるのも、この産業振興が中心となります。

 現代でも、新しい事業を展開するためにはさまざまなことを検討する必要があります。例えば、何ができる、何を作る、どこで作る、誰が作る、どんな組織で作る、誰が管理する、メンバーはどうする、どこで売るのか、市場があるのか、その市場の状況をどうやって調べるのか、その市場までの輸送手段はどうするのか、作った商品やサービスに競争力はあるのか、考えられるリスクにはどのようなものがあるか、そして、最後に決済方法や決済時期などです。

(1)新しい時代の潮流に乗った産業政策


 まず、当時の備中松山藩の置かれた状況を再確認します。平地は少ないが山があり、河川に恵まれ砂鉄がとれます。また、中国地方には「たたら」という製鉄技法があり職人もいます。中国地方は古くから製鉄が盛んであり、日本の鉄生産の8割を占めていました。鉄を作るには大量の木材が必要であり、山を制するものが鉄を制すると言われました。

方谷は市場として大阪ではなく、江戸を選んでいます。その情報取得は、備中松山藩江戸屋敷を通じて行われたといわれており、江戸は人が多い(商圏は定かではありませんが、当時の目安としては、江戸が356万人、大阪が204万人程度の差があったようです)、江戸は火事が多い、江戸は家の建築が多い、江戸は木材が必要などという情報を得ていたと考えられます。

 方谷は、製鉄した鉄材を売ろうとはせず、江戸に鉄製品の大きな需要があるとつかんでいました。それは江戸で火事が起きると、その後にまずやってくるのは釘拾いの人びとだったからです。こうした情報を踏まえて、鉄釘の他、江戸の食料を担う農家に向けて、備中松山藩内の農民の意見を反映させた備中鍬を開発し市場に出しました。

 これらの製品を運ぶ方法は、水利を活かし玉島港より船で江戸に直送し江戸屋敷で販売しており、安易に大阪商人任せにしませんでした。

(2)藩の事業部門新設(専売事業の推進)


 方谷は藩に撫育局という専売事業を担当する役所を1852(嘉永5)年に設立し、藩内において生産された年貢米以外の一切の産物を集中させ、その販売管理も手掛けました。これは武士階級を商人に近づけることであり、当時の社会機構の原則を壊しているともいえます。そのため行動には十分注意を払ったようです。

「身分制度で固められた封建社会を一夜にして資本主義革命ともいうべき企業立国に仕立て上げた。・・・これは秘密に行なわれた。徳川家康が定めた身分制度を否定などすれば、謀反の企てと言われる」
  『ケインズに先駆けた日本人-山田方谷外伝』矢吹邦彦著より引用

(3)有効な公共投資


 方谷はきびしい財政に状況にもかかわらず、おびただしい公共工事(製鉄所、道路・河川工事)も行っています。これは単なる工事だけにとどまらず、工事にかり出された地域の住民には臨時収入を与えるものであり、さらにこれは、産業政策・販売活動においては販売ルートの充実に直結しました。

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この記事は、「知的資産経営の実践」大学教育出版 2014年初版から抜粋・加筆して記載しています。データ等は当時のものです。

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