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山田方谷の改革(その1)

 山田方谷の改革は、組織の構築、産業の振興、教育、軍備とあらゆる分野に及んでいます。ここからは『山田方谷に学ぶ改革成功の鍵』(野島透著)の分類にしたがい、この改革を7つの分野に分け、それをおおむね時代順に見ていくこととします。

1.上下節約

山田方谷は、藩を危篤に陥れた原因が、極度の富の集中と、大阪商人や藩内の豪商から借りた借金にあると考えました。そこで、まず出ていくものを止めなければならず、次のような倹約令を1850(嘉永3)年に出しました。

 一、衣服は上下とも綿織物を用い、絹布の使用を禁ずる。
 一、饗宴贈答はやむを得ざる外は禁ずる。
 一、奉行代官等、一切の貰い品も役席へ持ち出す。
 一、巡郷の役人へは、酒一滴も出すに及ばす。

 これは、藩の全員に適用されたわけですが、すでに生活に困窮していた下級武士や農民には影響がなく、実質的に中級以上の者を対象としていました。こうした場合に、対象とされた者の反発は必至です。

 そこで、方谷自らも、藩の要職にありながら、俸禄は中下級武士程度にしました。自分が俸禄を下げることで、また、城下から離れた土地を自ら開墾し、さらに、自分の家計を公開することにより、反発を弱めていたようです。

2.負債整理

 山田方谷の改革では、藩を危篤に陥れた原因の「大阪商人や藩内の豪商への借金」対策では、大阪商人に対して、相手に不利な条件をのませています。その秘密はどこにあったのでしょうか。

 当時の備中松山藩は、5万石ではありましたが、その実情は2万石に満たない状況にあり、破綻寸前でした。それを、藩の債権者である大阪の両替商(銀主)に説明し、借金の返済延期を依頼しました。また同じ両替商に対し、彼らにとっては借金の担保であり、売買による大きな収入源であった大阪蔵屋敷とその米を返せと迫っています。そして方谷は、大阪の両替商にこの不利な両方の条件を飲ませることに成功しました。

 それは、今まで通り、実収を隠し、体面を保ちながら交渉しようとするものではなく、帳簿を持参し、元締めである山田方谷自らが、藩の窮状と粉飾決算の実態を暴露したものでした。

 相手は商人ですから、自らの得にならない話は受けるはずがありません。それを可能にしたのは、こうした体面を捨ててまでも、情報を公開する誠意に加えて、緻密な返済計画でした。つまり、「大信を守ろうとすれば、小信を守ってはおられない」とする誠意と、そろばん勘定に秀でた大阪商人をも納得させるような返済計画であったということです。

 さらに、この大阪蔵屋敷の廃止により、担保としていた年貢米も持ち帰ったことにより、これが次の政策につながります。方谷はこの一方で、藩内では豪商の債権凍結と商権剥奪という、大胆な政策を実行しました。これは、備中松山藩内の商人にとっては過酷な内容でした。

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この記事は、「知的資産経営の実践」大学教育出版 2014年初版から抜粋・追記して記載しています。データ等は当時のものです。

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