見出し画像

幕末の経済

4.幕末の経済

土地を検地して米の生産高を測り、大名に領地を管理させて取り立てを行うという織田信長のアイデアを実践したのが豊臣秀吉であり、徳川時代にはこの制度が完成しました。

江戸時代以前は、農民から職人や商人になるのが自由で、武士から農民や商人になることもできましたが、この制度の完成により武士は、この米を生産する農民を管理するのが仕事になりました。

米本位制経済を成り立たせるためには、農民を自由に土地から離れさせるわけにはいかないので、士農工商の序列を定めて、農民と土地を結びつけました。

米は通貨ではありませんが、実際には貨幣的な役割も果たしていました。

例えば税である年貢は、基本的に米で納めていました。

一石とは、1人の人間が1年間に食べる米の量をいい、その藩が10万石であれば、10万人の人が養えるということになります。

この米の値段は、金の価値以上に重要であり、その傾向は戦後、米価統制が撤廃されるまで続いていました。

この意味で江戸時代は米本位制であったと言えます。

江戸時代の通貨は、江戸を中心とした東国では小判として知られる金貨が、西国では銀貨が使われていました。


俸給を米で受け取った武士は、このままでは使いにくいため、貨幣への両替が必要になります。

こうして、武士の収入である米は小判に、小判を銭に替えるたびに両替手数料を商人が受け取ることになりました。

米は消費とともに消えてなくなりますが、商人が溜め込んだお金は、何度でも使えました。

士農工商として身分制度では最下位に位置づけられ、武士の教育では軽蔑されるように教えられてきた商人たちですが、実は次第に力を持つようになっていました。


米が唯一の収入源である武士が、その収入を増やそうとすれば、米を増産するか、農民からの年貢を増やすしかありません。

そのため、年貢は四公六民から五公五民へ、やがて六公四民へと、過酷な取立てが強要されました。

増産しても恩恵がない制度の中で、農民が米作りに励むはずもなく、年貢米は底をつき、それがさらに重い年貢へとつながっていきます。

また、前述のように一石とは人が1年間に食べる米の量を表しているので、人口が増えないまま生産量が増えた場合、価格が下がるのが当たり前となります。

このように、経済に疎い武士たちが行った藩運営は全国各地で窮地を迎えることになりました。


山田方谷が活躍した時代は、従来の統治機構が終焉を迎えようとしていた時期であり、同時に米本位経済から貨幣経済へと移ろうとしていました。

それが藩の巨額な財政赤字と一部商人の黒字という状況を生み出しました。


当時の備中松山藩は、前藩主が派手好きであったためか、藩士たちの日常も酒や遊びに流れがちで生活が贅沢になっていました。

また庄屋、富農、豪商から役人への賄賂も横行しました。

その一方で、道が壊れても修理されず交通の障害になり、賭博も盛んでした。農民は飢饉のたびに、子を間引き、娘を女郎に売らなければならず、餓死者も出ました。

米本位制では、米を生産しない武士階級、商人階級は納税しておらず、農民が年貢として収めた米は、本来、産地から都市へ持っていったほうが米の売値が高かったのですが、各藩が独自の流通ルートを持っているわけではなく、商人にかなり買い叩かれていました。


用語補足

  • 検地: 土地の面積や質を測定し、土地の税額を決定するための調査。

  • 一石: 一人の人間が1年間に食べる米の量を指す単位。

  • 四公六民: 四割が公の取り分(税)で、六割が民(農民)の取り分。五公五民、六公四民も同様に割合を示す。

  • 備中松山藩: 江戸時代の藩の一つで、現在の岡山県高梁市周辺を治めていた。

  • 庄屋: 村の代表者で、税の取り立てや村の運営を担当する。

  • 豪商: 大規模な商人や商業組織。

  • 年貢: 主に農民が納める税。主に米で納められた。

いいなと思ったら応援しよう!