
八)海を渡ろう
海を渡ろう
「狭いエリアの中で生き残るしかない」
という彼だが、今後の展開を聞かれると意外な言葉が返ってきた。
「全国展開ではなく、海外進出したい」営業マンとしての彼は、新たな人との出会い、環境との出会いに恐れはない。
地域にこだわり、地域の素材を使い、人の手により安全な製品を製造する。こうしたシンプルな製造過程は、ともすれば時代遅れとか非合理とか批判される。確かに、同一の商品を大量に生産するためには、最新式の大型機械を導入する方が合理的だ。
ところが、例えば発展途上国をめざした海外進出をしようとした場合、大型機械を導入しようとしてもすぐには進まない。リスクも大きく、現地の事情に合うかどうかも十分な調査が必要だ。
一方、それが別子飴本舗の伝統的な手法の場合は、すぐに展開できる手法でもあると気がつくだろう。小回りの効く製造方法は、その製造拠点すら選ばない。
現地の材料を使い、現地の方の好みに合うように商品開発を工夫することが比較的簡単に行える。
一見、非合理でありそれがビジネス展開を制約する弱点だと思われる製造方法は、ステージが異なれば、どこでも同時にすぐ展開できるという大きな強みを持ったものだと言える。
これに気づいた彼は、どんな地域でこの非合理な展開を進めようと考えるのだろうか。
子供たちに、おいしく栄養豊富なお菓子を食べさせたいと願った先の経営者達の思い。それが、子供を元気で産み、元気な子を育てたいという世界中の女性の思いに答えるものとなっているのかもしれない。
小さな子供の成長を育むことは、ひいてはその国を作っていくことにもなる。
今、我が国では少子化と叫ばれる中、使用されるすべての材料を細かくチェックし、小さな子供が食べるものに気を配る若いお母さん方が増えてきた。
大量消費の時代からより確かなものを求める姿勢は一般庶民の中で強まっている。それが愚直なまでに非合理な伝統手法にこだわる越智の経営哲学が再評価されている所以である。
かつて日本の近代化の礎となった別子銅山に由来する別子飴本舗の商品が、歴代経営者の思いとともに国内のこうした動きとともに、海外の新しい国作りの礎となる日がすでに始まっている。
本記事は、2014年に知的資産経営報告書を作成させて頂いた当時、越智社長との何度もの面談や会食の際に伺った話を、UP主が、当時勝手にまとめたものです。(社長ご本人には当時、内容の確認をして頂いております。)
こうした内容は、一般に知的資産経営報告書には掲載されませんが、企業・事業の根本にある原動力、経営者の思いも、重要な知的資産と考え、それをお客さまや取引先の方にもお伝えしたいと考えています。
別子飴とは
別子飴本舗は、明治元年に創業した、昭和13年当時の経営者が北海道での乳牛関連の仕事から学んだことをヒントに当時、乳菓としての飴は珍しかった別子飴を作り、商品登録したことを機に商号も別子飴本舗となった。
現在は、太りすぎ、カロリーの取り過ぎを気にする社会になり、子供の肥満すら問題になっているが、高度経済成長期の前まで、栄養価の高いことが商品の価値であった、現在でも大手企業のキャラメルのパッケージには栄養が豊富であることが書かれています。
別子飴は、子供のおやつにも高い栄養価が求められた時代にあって、乳菓であり、しかも一つ一つが包装されデザインされた箱に入っている高級な飴として存在感を高めてきた。当時、テレビの子供番組の前に定期的にコマーシャルを流し続けたことも、この地域での別子飴の認知度を不動のものにし、それは現在でも続いており、銅釜で水飴を炊き上げる創業以来変わらない製法は、今も守られている。
別子銅山
この銅山は、元禄4年(1691年)から昭和48年(1973年)まで280年間続いた日本三大銅山の一つで、新居浜発展の礎となるとともに日本の貿易や近代化に貢献した。標高600メートルを超す地域に大正時代から昭和初期にかけて、約3800人もの人が住んでいた。一貫して住友家が経営し関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となった。