【私とわたしと私達】
現実とは時に見失うことがある。
現実とは紙一枚分の出来事でしかない。
本当の私はどこにいるのだろう。
考えてしまうと余計に見失ってしまう。
何人もの私が私の中で言葉を交差させる。
ああ、そうか。
そういうことか。
私は全てを悟り、深い眠りについた。
·····
カーテンの隙間から光が射し込む。
普段からカーテンを閉め忘れて就寝するようなことはなかった。
お気に入りの赤い遮光カーテン。
毎晩眠る前は赤い遮光カーテンの生地感を楽しんでいる。
今日だ。
今日初めて、早朝のこの部屋を眩い光が照らしたのだ。
「あれ、おかしいな。昨日はよっぽど疲れていたのかな。」私は鉛のような体を起こし、目を擦り座ったままの状態で全身を伸ばした。
私は晴れの日が嫌いだ。
元気でいないといけないという使命感に駆られるからだ。
晴れている日に暗い顔をしていると、なぜだか沢山の人に声をかけられる。
これが私の平常運転なのに。
こんなに晴れている日は、心の隅では雨が降れば良いのにと思っている。
雨の日には人が減るからだ。
私は雨の日の自分が現実に存在していると思っている。
もちろん晴れの日の自分は存在しているのだが。
私が見る世界の住人は皆、晴れの日が好きなようだ。
この世界の住人の現実は、多くは太陽で出来ている。
そして私は月の住人なのだ。
わたしはそのままベッドから体を降ろす。
普段パジャマを着ないわたしは普段着のまま寝室のドアを右手で開けた。
バタンとドアの閉まる音を背中で確認すると、洗面所へ向かう。
鏡の前に立ち、乱れた髪を手櫛で落ち着かせ、歯ブラシを持ち、歯を磨いた。
スーツに着替え、リュックを背負い、重い玄関の扉を開くのだった。
..........
時は経ち、私は帰りのバスに揺られていた。
いつもそうだ。
あんなものの記憶など取っておく必要はない。
私は耳にイヤホンをし、お気に入りの音楽に身を委ねていた。
バスの硝子窓から観る暗い世界が、私をそっと包んでくれる。
街燈の灯りが地上の星のように輝き、暖簾の赤が揺れ、歩く人々の笑顔がこの世界の暖かさを感じさせてくれる。
今夜の月も美しい。
私の大好きな暗い世界に相応しい音を選択する。
その瞬間、世界は私だけのものになった。
心地良い揺れとともに瞼を落とす。
生まれてきてよかった。
今日も私でよかった。
安堵し、硝子窓に凭れると、運転手のアナウンスが聞こえた。
降りなければ。
私は体を起こし、自宅からの最寄りバス停より一つ前で降車準備をする。
短い間のドライブを楽しみ、コンビニエンスストアに向かうのだ。
······
「いつもは発泡酒だが、生ビールにしよう」小声で発した。
ツマミは枝豆、焼き鳥に唐揚げ。
無難な選択だ。
毎度買い物籠を忘れてしまう私は、両手いっぱいに楽しみを抱えレジへと向かう。
「いらっしゃいませえ」気の抜けた店員が言う。
この気の抜けた声、嫌いじゃない。
安心する。
「袋どうなさいますか?」店員が私の目を見て確認してきた。
「エコバッグ持ってます」店員に手のひらを見せ、私はリュックからエコバッグを取り出す。
「千円です」店員が言った。
「すごい」私はこの組み合わせで千円丁度になることを知っていたが、一応言葉にしてみた。
「すごいっすね」店員は笑った。
私も笑みをこぼし、お会計を終わらせる。
自動ドアが開くと暖かい空気を纏う。
体が軽い。
両腕を空に伸ばし、この世界の空気を肺の奥底まで送り込む。
イヤホンを耳に装着し、流れる灯りや人々の流れに逆らい針葉樹の続く石畳を歩いた。
時々空を眺め、薄い雲のかかり具合を確認する。
「雲があると空が広いな」私はそんなことを口にすると、足取りが徐々に早くなるのを感じた。
家まではおよそ10分。
ただ、私にとってこの10分はかけがえのないものなのだ。
この道を歩いている時だけは、私が私でいられる。
気分良くエコバッグを振り回していると、ビールのことが頭を過ぎった。
「まずい。ビールを買ったのだった」私は急いでエコバッグの中を確認する。
変わっているはずはないが、一応だ。
このような調子でいつものように玄関のドアを開ける。
「ただいまあ」気の抜けた声で、誰もいない家に独りでつぶやく。
「亀でも飼おうかな」私は少しでも自分が現実に留まっていられるように努力したかった。
「亀がいれば、こうやって独りで話していてもおかしくはないし、亀は長生きすると言うし、楽そうだし」独り言をずらずらと並べた。
わたしは、私は現実を失いかけた。
今ある自分が現実。
太陽の住人ではない。
私は月の住人。
わたしは····
ゴトッ。
妙な音がし、足元を見た。
そこにはビールが転がっていた。
なぜだろう。
私はエコバッグの底を覗く。
予想通り乱暴に扱ったエコバッグの底は破れ、ツマミさえも脱出したがっていた。
「ふふっ」些細な物の抵抗に笑みが溢れた。
危なかった。
また私は私でいられなくなるところだった。
深い呼吸を一つし、ビールを拾い上げ冷凍庫にしまった。
そして私はお風呂の支度をはじめる。
脱衣所には脱ぎ散らかした服が散乱しているが、そんなものお構いなしにシャワーの蛇口をひねった。
浴室に灯りは必要ない。
私が今日のわたしと対話する場所だからだ。
目を瞑り、頭からシャワーを浴びる。
そして、私はわたしに語りかける。
·····
今日の私はどうだった?
よかったんじゃない?
どこがよかったのかな?
些細なことで笑顔になれたから。
それだけ?
それだけよ、それだけで十分。
私は現実に生きているのかな?
私は間違いなく現実にいるわ。
時々怖くなるの、現実との境が分からなくなってしまって。
現実とは紙一重?
そう、そうよ、そう感じる。
そうかもしれない、けれどそうじゃないかもしれない。
どういう意味?
どんな世界もわたしと私にとっては現実だと言うことよ、所詮人なんて意識でしかないのだから、私に沢山の意識が存在していたっていいの。
そうだと言うのなら、本当の私の現実は?
それはね、わたしであり、私達。
······
はっ、と我に返り流し続けていたシャワーを止める。
体を拭き、タオルを頭に巻いたまま浴室をあとにした。
わたしはその足で冷凍庫を開ける。
数十分だが、冷凍庫にビールを入れることによってキンキンに冷えたビールに変わるのだ。
あまり変わらないという人もいるが、私はこの変化に気付き、楽しんでいる。
そしてツマミを一つ、テーブルに準備する。
今日は枝豆だ。
キンキンに冷えたビールが汗をかいてきた頃、わたしの着替えは終わった。
ここで大切にしていることは、ツマミは一種類だけいただくということ。
ビールは常に一本は冷蔵庫に常備し、一日に飲める量は二本まで。
計三本になるように買い足している。
ツマミも同じだ。
その後わたしは、オレンジ色の明かりの中で映画を観た。
内容は学園モノのコメディだったと思う。
私には響かなかったのだろう。
一日の物足りなさを感じてしまう瞬間だ。
そして私は、時計の短針が動くのを見てしまった。
「寝ないと」わたしはビールの空き缶とツマミの殻でいっぱいになったローテーブルを背に左手で寝室のドアを開く。
····
わたしは私。
私はわたし。
私達はわたしであり、私。
私の意識が存在する現実。
わたしの意識が存在する現実。
私達の意識が存在する現実。
紙一枚分の境界線。
私達は気付かぬ間にわたし達と入れ替わる。
挨拶などはしない。
断りもしない。
全ては私なのだ。
私はこの世界の全て。
「さあ寝ましょう」
end.
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