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社会のタブーに触れた。相模原障害者施設殺傷事件を元に、優生思想について私なりに考えてみた。

社会のタブーに触れた。相模原障害者施設殺傷事件を元に、優生思想について私なりに考えてみた。

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まずはこれを観てほしいです。

この映像は、【相模原障害者施設殺傷事件】をモチーフにした、辺見庸さん原作の日本の小説が映画化された作品です。今回は世界中でタブー視されている問題に焦点を当てていきたいと思います。この記事では、大変重い事件の内容を書いています。気分が悪くなったり、嫌な気持ちになったりといった場合があると思いますので読み始める前に一度深呼吸をしてみて下さい。

重い内容に耐性のない方は、この先に進むのをおススメしません…
代わりに私の別の記事を出口として表示しておきますので、そちらへどうぞ。

このまま読み進めても大丈夫だというあなたは、ぜひ読んでみて自分を見つめ直してみて下さい。私は、この記事を書こうか物凄く迷いましたがSGNewsJapanは、事件が風化してしまうことを嫌います。間違ったことや起こした事件をそのままに犯人が処刑台に上がり、その後に続く者たちが事件のことを忘れてしまい、同じことを繰り返すような人間が誕生することが心の底から許せないのです。

先に言っておくと、今回の記事では忖度なしに私の思っていることを書きます。そのため私の人格を疑ったり、自分自身の考えが本当に合っているのかと疑心暗鬼になったりとあると思いますが、どうかご容赦ください。私自身は命を軽く見ていることも、差別主義者でもありません。ただただ思ったことをここに綴ろうと思うのです。

前置きが長くなりましたが、さっそく書いてゆきたいと思います。ぜひよろしくお願い申し上げます。


【2024年まで続いている旧優生保護法】

』と書かれているため、続いているという言い方が正しいのかは分かりませんが、2024年5月31日の読売新聞にも「旧優生保護法」について書かれた記事があるのです。内容としましては、「強制不妊手術」のことですね。

旧優生保護法ってなに?
と思う方もいるかもしれませんので、説明させていただきます。

旧優生保護法は1948年に制定され、1996年まで施行されていた法律です。この法律は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止し、母性の生命・健康を保護する」ことを目的としていました。この法律の下では、知的障害や精神疾患などを持つ人々に対して、強制的に不妊手術(優生手術)が行われていたのです。

この法律の影響は教育現場にも及び、「障害や病気がある人は子どもを持つべきではない」という優生思想が教科書にも反映されていました。これにより、社会全体に優生思想が広まってしまったのです。

1996年に法律は「母体保護法」に改正され、優生思想に基づく条文は削除されました。しかし、被害者への補償や実態調査は長い間行われなかったのです。2018年に初めて「旧優生保護法」による強制不妊手術が憲法違反であるとして国に賠償を求める訴訟が起こされました。これを受けて、国は2019年に被害者に対して320万円一時金を支給する法律を制定したのです。

この政策、なにかに似ていると思いませんか。そう、この思想こそ「アドルフ・ヒトラー」が強く信奉していた優生思想なのです。ヒトラーは、「アーリア人種」が他の人種よりも優れていると信じていました。彼は、アーリア人種を「文化創造人種」として位置づけ、他の人種を劣等視していたのです。

アーリア人種って?

アーリア人種」とは、言ってしまえば「概念」です。歴史的には言語学的・文化的な背景を持つものの、ナチス・ドイツによって人種差別と優生政策の「道具」として利用されました。現代では、この概念は批判的に捉えられており、その誤用がもたらした歴史的な悲劇についても広く認識されています。現在では、アーリア人種という概念は科学的に無意味であり、むしろ人種差別と優生思想の象徴とされています。現代の遺伝学や人類学は、人種という概念自体が生物学的に一貫性がないことを示しており、人類の多様性は遺伝的連続体であると理解されているのです。

アーリアとは、古代インドやペルシャ(現在のイラン)で「貴族」や「高貴な人々」を意味しているそうですよ。白人種の中でも最も優れた人々として位置づけたのだとか。さらにその中で、金髪であり碧眼の人々は特別だったそうです。

【ヒトラーが制定した「ニュルンベルク人種法」】

ヒトラーは、1935年にニュルンベルク法(ニュルンベルク人種法)を制定し、これによりユダヤ人をはじめとする「非アーリア人」とアーリア人の結婚や性的関係を禁止しました。この法律は、ユダヤ人の市民権を剥奪し、彼らを社会から排除するための法的基盤を築いたのです。

そしてナチスは、「不良遺伝子」を持つと見なされた人々に対して強制的に不妊手術を行いました。これは、知的障害者、精神病患者、遺伝性疾患を持つ者などが対象となり、1933年に施行された「遺伝病子孫防止法」に基づき、数十万人が不妊手術を受けさせられたのです。

その後ヒトラーは、障害者や重病者を「生産的でない」として大量殺戮する「T4作戦」を命じました。この計画のもと、数万人がガス室や薬物注射で殺害されました。これは、ナチスの優生政策の一環として実行されたのです。ヒトラーの最も悪名高い政策は、ユダヤ人を体系的に抹殺するホロコーストです。600万人以上のユダヤ人が、「アウシュビッツ」や「トレブリンカ」などの強制収容所で虐殺されました。この大量虐殺は、ナチスが「最終解決」と呼んだ政策の一部でした​。

画像はイメージです。

これらの政策は、ナチス・ドイツのイデオロギーに基づくものであり、恐ろしい人権侵害と大量虐殺を引き起こしました。これらの行為は、第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判で厳しく非難され、現代でも人道に対する大犯罪として記憶されているのです。

1945年5月8日、第二次世界大戦終結後にドイツは無条件降伏し、この降伏により、ナチス・ドイツの政権は崩壊。ナチスの優生政策やホロコーストも事実上終了しました​。

そこから3年…
日本が1948年に「優生保護法」を制定。

優生保護法」と「ニュルンベルク人種法」。この二つの法律の違いはどこにあるのでしょうか。「大量虐殺まではしていない?」「人種差別をしていない?」本当にそう言えますか?

国は間違いを認めていますが、一度でもこのような法律を制定するような国が今後どうなってゆくのでしょうか。今騒がれているのは、「緊急事態条項」ですね。「国家緊急権」といいますが、この話は別の記事でしましょう。

【相模原市やまゆり園事件】

2016年7月26日午前2時頃、神奈川県相模原市にある障害者施設「津久井やまゆり園」で、戦後最悪の殺傷事件が発生しました。この事件は、日本中を震撼させ、その衝撃は今も多くの人々の記憶に深く刻まれています。

記憶にある方は多いのではないでしょうか。犯人の名前は「植松聖」。当時26歳の元職員でした。深夜の静寂を破るように施設に侵入したのです。彼はナイフを振るい、19名の障害者を殺害し、さらに26名に重軽傷を負わせました。この事件の残酷さは、多くの人々にショックと恐怖を与えたのです。

この事件の恐ろしい点は、植松が逮捕された後でした。植松は自らの行為を「『障害者は不幸をもたらす』という思想に基づくものである」と語りました。そうです、なんとこの植松聖容疑者は「優生思想」を強く信奉していたのです。

植松は、「障害者の存在が社会にとって不利益であり、彼らを排除することは正当化される」と考えていました。このような考え方は、社会的にも倫理的にも強く非難されるものであり、多くの人々にとって受け入れがたいものでした​。いえ、受け入れがたいもののはずでした…

事件後、悲劇が起きます。なんと、植松の思想に賛同する者たちが現れたのです。

この時期に放送されたニュースでは、「かけがえのない命が失われた…」と報道されていました。この言葉は当たり前で共感出来ます。ですが普段の日本社会はどうでしょうか。日本社会は、その「かけがえのない命」を本当に大切にしているのでしょうか。

私の周りには障がいを持った方が数名いまして、私自身も尋常性白斑症という皮膚病を持っています。そういった施設にもお邪魔したり、働いていた人から直接話を聞いたこともあります。その人たちが口を揃えて言うのは、「社会への不満」です。「いざなにかあった時にあきらめるしかない」「この程度のお金で生活ができない」など様々な不満があるようでした。

日本には財源がないため、高齢者や障がいのある方たちへ使うはずのお金がどんどん削減されてしまったりしているんですよね。このような部分に植松は目をつけたわけです。「日本には財源がないんだから、障がいがある人にお金を使っている余裕なんてないはずだ」このような発言とともに、この意見に賛同する人たちが現れました。

このような話もありまして実際に調べてみたのですが、丁度この時期に生活保護受給者たちは、生活保護費の削減などをされてしまっていたようです。生活保護受給者たちからは不満の声も上がっていたのだとか。

年金問題なんかもそうですが、国が行う政策には「お金を稼ぐ能力のない人、生活が困難な人を生かしておく余裕なんてない」と言っているようにも捉えられますよね。そんなつもりがあるのか、ないのかは分かりませんが、このように捉えてしまっても仕方のない人がいるということです。

このような日本社会が植松のような男を産んでしまったのか、それとも彼自身が狂っていたのか…

私の本音を書かせていただくと、植松の思想に共感はできないものの、植松がこのような考えになってしまったことを理解できなくもないのです。社会から虐げられた人たちを目の前に、植松は一体何を感じたのでしょうか。「あんなやつがやったことを考えるなんてこと自体したくない」と、このような意見が多いのは当たり前です。

正直人間の所業ではありませんから…いや、こういったことをしてしまうのも「人間」なのかもしれませんが。

では、別の人間が、「事件を起こす前の植松」と同じ劣悪な状態だったとしましょう。その場合、本当にその男は同じ事件を起こさないのでしょうか。分かりませんよね。

下記をお読みください。

【犯行の動機】

障がい者は社会の負担
重度障がい者は人間であるが、人ではない
このように障がい者の人権を完全否定しています。植松はこの二つの理由から障がい者は社会のために排除してもよい存在と結論付けたのです。

最初の頃の植松は、障がい者を「かわいい」と言っていたのですが、施設で勤めて二年が経過した頃におかしいと感じるようになったことがあったそう。それは、施設の利用者たちの食事がドロドロであること。一日中ベッドや車椅子に縛り付けられていること、など。

長く勤めてゆくうちに、利用者たちの姿を「哀れ」だと思い始めたのではないでしょうか。植松は小学生2年生くらいの時に「障がい者はいらない」という内容の作文を書いていたようなので、子どもの頃から障がいを持つ人たちへの関心があったのでしょう。

その作文の内容は、あまりにも酷いものだったそうですけどね。
戦争が起きたら、障がい者に爆弾を括りつけて敵に突っ込ませよう。そうすれば家族も喜ぶだろう

このような考えを幼い頃から持ってしまった場合、大人になってゆく過程でまともでいられるのでしょうか。植松のことを肯定しようとする人もいますが、私は植松が元々異常者だったと思うのです。

【裁判で触れられなかった真実】

そしてこの事件では、裁判であまり触れられなかった大きな問題がありました。それは「やまゆり園」自体のこと。なぜ植松のような人間がいた場所の問題に触れなかったのでしょうか。施設内で、なにかが起きていたのでは?

ということで調べてみますと、こんな話がありました。植松自身が施設の職員たちが利用者に暴力を振るう姿や、命令するように話していた姿なんかを見ていたそうなんです。初めは上司にも問題の追及をしていたそうなのですが、「おまえも2、3年経てば分かる」と言われたのだとか。それから植松は利用者に対する態度を変えていったのだそう。

このような出来事で周りの人間に影響され、人格すらも変えてしまうのなら施設での仕事などやらなければよかったのにと思うわけですが、人間は人に影響されるものですし、実際心の奥底では利用者に対して侮辱するような気持ちがあったのでしょう。植松は影響されやすい人格だとして、なぜ裁判ではやまゆり園そのものの行いを深くまで追求しなかったのでしょうか。

これ自体は、物凄く複雑な問題だと思っていて、実際に「やまゆり園」のような施設は他にも存在していると思います。裁判でこの部分を追求できなかった理由には、「どうしようもできないことがあるから」という言葉がぴったりなのではないでしょうか。

実際に施設で働いている人が言っていましたが、利用者があまりにも暴れて手が付けられなくなってしまった場合は、どうしても拘束具をつけなければならないし、物を飲み込むのが上手でない人には、ドロドロのご飯を食べてもらわないとならない。このような事は、どうしようもできないことだそうです。

問題は、暴力を加えること。この問題については解決しなければいけない点ですが、施設経験者の方々が口を揃えて言うのは、「手を出したい気持ちが分からなくもない」という言葉。私は、なぜそのような気持ちになるのか聞いてみました。

すると、話を聞いた施設経験者Aさんは、このような事を言ったのです。

ある利用者は話が通じませんでした。夜になったら突然呼び出され一人発狂しているんです。落ち着かせようと声を掛けるのですが、ずっと私に『戦争に行かないと』と言ってきます。初めの時は分からず『戦争は終わったんですよ』と声を掛けていたのですが、その返事を聞くと余計に発狂してしまって。『戦争は終わった』という言葉を使わずに、うまく返事を変えていました

私自身が暴力をしていたなんてことは絶対にないのですが、正直ほかの職員が手を出しているのを見たことがあります。でも本気で殴ってしまうというよりかは、子どもを世話する昭和のお父さんのような、そんな感じでした。やまゆり園の事件で犯人が人を殺害した事件、私も少し気持ちが分かるんです。人間じゃないなんて言いたくはありませんが、同じ人間なのかと思う利用者さんはいます。それほど私も追い詰められていたのだと思うのですが

Aさんの最後の言葉にゾッとしたのを覚えています。

施設で暴力を振るう事が間違っているということは、人間として当たり前です。しかし、と言ってしまえばどうでしょうか。私自身も躾について反省していることがあるのですが、私の子どもが幼い頃、道路を飛び出しそうになった時がありまして、その時反射的に腕を強く引っ張り、頭を叩いてしまったことがあったのです。

この経験から、もしかして施設の職員は、利用者さんを「躾している」という感覚になっていってしまっているのではないか、そのように感じました。言葉が通じない、言ったことをしてくれない、あるいはできない。このような行動って例えてしまえば子どもと同じような部分になると思います。ある種の錯覚から、自分の方が立場が上だと感じ、いつのまにか「お世話係」から「躾係」になっていってるのではないでしょうか。

この躾係の感覚って、施設内では「仕方のないこと」と言ってしまえませんかね。国からのサポートが少ない施設で、人員不足給料も見合ってない拘束時間は長い、深夜勤務もある、このような激務に、利用者さんのケア。さらにこれ以上のことが求められると思うのですが、毎日毎時間穏やかな気持ちで居られる人ってどれくらいいるのでしょう。

いつか事件が起きると思っていた

こう話す人がいるように、施設では国の目が行き届いていない。いや、目が届かないように、わざと山奥に存在しているのか。これからの時代、さらにカメラなどの監視機能が発達すれば暴力自体はなくなるのではないかと感じます。もちろん監視機能の向上が確実な防止処置になるとは思っていません。

国がもっと障がい者施設に目を向け、お金を掛け、働く人が働きやすい環境を作ればいいのです。

【ここまでで感じたことはありますか?】

上記につらつらと文章を書きましたが、どうでしょう。

相模原殺傷事件のような同じことを、二度と起こさないための対策が思いつきますか?ここからは本音ですが、正直難しいと思います。

例えば、上の文章で書いた通り「国が施設にお金を掛け、職員が働きやすい環境をつくる」。これが実際に可能でしょうか。2024年現在でも日本の経済は下降方向。財源は海外に流れ、戦争をするかもしれないという始末。給与は上昇してきたと言っていますが、国民の負担は同時に上昇。生きていくだけで、自分のことを考えているだけで精一杯。

このような社会で、どのような会社に勤めていけばいいのでしょう。私が学生だった頃、いわゆるガテン系といわれた仕事が流行っていました。若いうちから働けましたし、給与がよかったり。その後スマートフォンが拡大してゆくにつれ、インターネットに触れる人が増え、IT関係の仕事が人気になってきました。こうしてゆく時代でも、介護だったり、施設職員という仕事が人気になるような時代は少なかったように感じます。ほぼなかったと言ってもいいです。

これから先、「施設職員になって利用者さんを幸せにしたい」と思う人がどれ程現れるでしょうか。もちろんプロフェッショナルの方はいますし、現れるとは思いますが、その人がどれほど仕事を続けることができるでしょう。その人が結婚を考えたら?裕福な生活をしている人に劣等感を感じ始めたら?

障がい者施設に限らず、結局のところ、人間は自分の好きなことを好きなようにこなしていないと、それがストレスになってしまうのです。このストレスが原因で、他の障がい者施設でも同じ事件が起きてしまう可能性もあると思うのです。食い止めるには、施設が安定していることがなによりも大切で、国の援助が必要です。

このような問題は、本当に難しい。変えるためには国自体を変えなければならない。そこまでの行動力がある人間が現れないと、なにも変わらないのではと感じます。私は大丈夫だとか、不安だとか、様々な考えがあっていいと思います。その中でも自分だけは同じことを繰り返さないと強く信じることが大事なのではないでしょうか。

【優生思想についての私の見解】

今回は、相模原障害者施設殺傷事件植松聖の発言を参考に、自分なりに優生思想について書いてみましたが、沢山の記事や動画を見るうちに、なにが正しいのかと頭が混乱してきたタイミングがありました。私自身は辛い思いをして生きるなら、今では安楽死という手段を選んでしまうかもしれないですし、無理して生きようとも、周りの人に迷惑をかけてまで生きようとは思いません。

ただ、優生思想について語る人たちは、常に自分の事を優生だと思っていて、自分が劣性の立場にいることなんて一度も感じた事がないはずなんです。そのことを踏まえて考えると、障がいを持って生まれている人たちからしたら、今の世界と生活は当たり前で、言ってしまえば頼るのが当たり前。それが生きているということなのだということも感じました。つまり、障がいを持っているからといって、劣性ではないですし優生でもない。これは健常者と呼ばれる人たちにも当てはまります。わざわざ言葉で表現し区別をつけてしまったからこそ、このような議論が生まれてしまったのではないでしょうか。

社会のお荷物
社会のためにシんでくれ

このように植松が発した言葉は、根本的に違っています。このような思想と言葉は、大いに間違っているのです。

忘れてはいけないことは、人は国や社会のために生きているのではなく、個人や大切な人のために生きているということです。国家のための国民ではなく、国民を守るために国家がある」 乙武洋匡

乙武洋匡さんは、このように言っていました。この言葉にモヤモヤが全て吹き飛んだことを覚えています。優性思想とは、社会のために良い遺伝子を残さなければいけないという思想ですが、良い遺伝子って一体誰が決めるのでしょう。なにをもっていいのかが明確ではありませんよね。しかも我々個人が、なぜ国家のために生きなければいけないのでしょうか。私たち自身は、自分の人生を謳歌するためにこの世に生まれてきたはずなのです。優性思想などという思想に囚われ、罪のない人々を殺害するなんて言語道断です。

優性思想に囚われた時は、ぜひ「自分自身を大切にすること」を忘れないで下さい。仕事でどうしても辛くなったら、真っ直ぐに自分のことを考えて休んでしまえばいいのです。我慢して感情がぐちゃぐちゃになるよりかは、怒られていたほうがマシですからね。

【ヒロアカからのセリフ】

私の好きなアニメに「僕のヒーローアカデミア」という作品があります。このアニメではヒーローがヴィラン退治をするのですが、内容がとにかく濃いのです。ヴィラン、すなわち悪者たちにも悪者になった理由があり、彼らにとってヒーローは、自分の思想の邪魔をする悪者、つまりヴィランなのです。ヴィランたちからすると、ヴィランがヒーローと同義であるのです。

このアニメに出てくる敵側キャラクターがこんな言葉を発します。

‘‘
おまえらヒーローは、他人を助けるために家族を傷つける。

父の言葉だ。

信念なら…ある、あったんだ。

お前たちは、社会を守るふりをしてきた。過去、何世代も守れなかったものを見ないふりして、痛んだ上から蓋をして、あさましくも築き上げてきた。

結果、中身は腐ってウジが湧いた。

小さな、小さな積み重ねだ。

守られることに慣れきったゴミども。そのゴミどもを生み出し、庇護するマッチポンプども。

これまで目にした全て、お前たちの築いてきた全てに否定されてきた。

だから、こちらも否定する。だから壊す。だから力を手に入れる。

シンプルだろ?理解できなくていい。

できないから、ヒーローとヴィランだ。
‘‘

アニメからこのような言葉を学ぶとは思いませんでした。日本のアニメが称賛される点は、まさにここですね。このヴィランが言うように、社会は悪いものには蓋をしているようにも感じます。その感覚というのは、社会に不自由している人が一番強く感じているのではないでしょうか。当たり前のように生活している人たちや、一方的に悪を裁いている人たち、良かれと思ってしている行為の結果、実は知らぬ間に苦しむ人を作ってしまっているのではないでしょうか。

【結論】

さて、ここまで調べてみての私の結論です。

結果、理解できない人間を理解する必要はない。ただ、なにかが起きてしまう前に止められる可能性は1%はある。優生思想は誰しもが持っていて、それは無意識であるため制御が難しい。暴走した優生思想は、人の思考を狂わせ、人道に外れたことをしてしまう。優生思想を強く謳っている人間たちは、自分自身が人でなくなっていることに気付いていない。私は、植松の犯行を完全否定する。

【感想、まとめ】

ここまで読んで下さり、ありがとうございます。いかがでしたでしょうか。今回は世界的にもタブーな記事をまとめてみました。以前この内容に触れたnote作者様がテレビ出演していたことがありました。コメント欄が荒れたそうです。(note内に、私が確認できたコメントはありませんでした)

確かにタブー視されている問題を、私のような素人ライターが語るなという話ではありますが、では誰が語るのでしょうか。有名な方がこの問題に触れると、瞬く間に炎上しますし、政治家なんかが語ったらさらに危険ですものね。

今の時代情報が錯綜し、肝心なニュースですらあやふやにされつつあります。本当のことを伝える人は消えてしまうのでしょうか。事実を伝えるのは悪いことなのでしょうか。

テレビや新聞、ネットニュース。私たちはどこから本当のことを知ればいいのでしょうか。正直なところ、本当のことなんて確認のしようがないんです。嘘か本当か、正義か悪かこれを判断するのは自分自身です。この世で一番に信じられるのは自分自身です。大人になってら勉強しなくていいと思っている人はどれほどいますか。私もそういう大人になってしまうところでした。

世の中は常に動いています。情報が錯綜しています。技術が進歩しています。乗り遅れたものから平気で置いて行かれます。置いて行かれると死んでしまう世の中になってきました。これが資本主義です。国に頼るにも限度があります。自分でなんとかするしかないのです。どうすればいいのか悩んだら、とにかく考えることです。新しいものに手を出すことです。テレビの情報はなるべく避け、新聞と権威のある人の情報を照らし合わせ、知識を集める事です。

文字を読むことから逃げてはいけません。文字こそ文明が創り上げてきた力です。文字を口に出すと現実になります。文字から物語が生まれます。文字から知識を引き継げます。文字から正しい知識を導き出せます

文字をそのまま読むのではなく、頭の中で解読するのです。解読するための方法も文字の中にあります。世の中の文字という文字を読み漁るのです。新聞が一番手っ取り早いですが、情報の渦に飲み込まれしまうので、初めは短い小説なんかがいいでしょう。まずはゆっくりと文字に触れてみるのです。

必ずあなたの未来は変わるはずです。優生思想についても自分なりの正しい考えが身に付けられると思います。正解はみんな共通ではありません。沢山の正解があっていいのです。それと同じく間違いも沢山ありますので、そのようにならないように、他の私の記事を読んでみて下さい。

SGNewsJapanでは、世界中で起きた様々な凶悪な事件を記事にしています。なぜならば、その事件を知ってもらい同じようなことを起こさせないためです。人間として生きていくうえで、やっていいこと駄目なことがあります。私が記事にする例は、まさに「やってはいけないこと」です。これをしてしまうと、あなたの人生が消えてなくなります。

人生とは夢をもつことです。人生とは目標を掲げる事です。人生とは大切な人を守ることです。人生とは自分の人生を謳歌することです。人生とは自分の気持ちに正直になることです。人生とは知恵を集める事です。

あなたの人生は、どのようなものですか。
ぜひ、コメント欄で教えてくださいね。

では、また次の記事で。
少しでも良かったなと思ってもらえましたら、フォローいいね拡散もよろしくお願い致します。

そして現在noteにて開催中の #創作大賞2024 に参加している私の作品があります。こちらも読んで頂けますと跳ねて喜びます。
初めての長編作品で10万字ほどを書き上げました。

もっと政治や社会の問題を組み込めればよかったのですが、まずは「大麻」というものがどんなものかを理解して頂くところからだと思いますので、主に「友情」がテーマになっています。現代ドラマ風に描いた世界観をぜひお楽しみください。

下記の記事もお時間がございましたら、読んでみて下さい。

今回も本当にありがとうございました。
SGNewsJapan編集長Atsushiでした。


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