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『永遠が通り過ぎていく』感想

感想の前に1点だけ。
監督は2作目制作のためのクラウドファンディングを実施中だそう。10月19日迄で1000円から支援可能なので、もしよければリンクの文章をお読みいただきたい。私はこの映画を観て、どうしても2作目も観たいと思った。

以下、感想。

いい映画や小説を観たり読んだりすると、いろいろなことを頭に想起し、そしてそれが感覚の体験となって自分の中を通り過ぎていく。そのあとに「言葉」で感想を書こうとしてもなかなかうまくいかない。。。自然言語はクオリアを真っ当に伝えるのにあまりにも薄っぺらい。そんなもどかしさを感じながらこの文を書いている。

戸田真琴監督の『永遠が通り過ぎていく』。芸術的なことにまったくと言っていいほど造詣がない理系人間の私にも、とてつもない映像の光の美しさを感じることができた。もちろん、そのほかにも数えきれないほどの多くのことを感じ、引き込まれて、揺さぶられる。そんな作品だった。

このほど、映画館での再上映を鑑賞し、改めてその強度に感動した。配信でももちろん美しいのだが、映画館という空間はどうしてもまた格別だった。(下北沢で上映中、こちらも19日迄)

この「感動」にはありとあらゆる言いたいことが入っているのだが、なかなかうまく説明できない。だからこそ、少しでも興味を持った人はぜひ、ご自身で感じていただきい。でもとにかくお勧めできる素晴らしい映画だということだ。

わかりやすいハリウッド映画などを好んで見ることが多い私には、なかなか難しい部分もあった。ストーリーとして観る映画ではないのだ。断片的に示される感情、心象風景そのものから感じ取る体験質=クオリアがこの映画の本質なのだろう。普段ハリウッド映画を観るときのような、爽快感をただ享受するという体験よりも、というかそれと真逆で、哲学的のような自意識のような内省的な思考のほうが活性化された。

詩的な言葉が続く。私小説『そっちにいかないで』を読んでいたので、監督の自伝的な要素が強いことは読み取れる。しかし、私小説を読むことは必ずしも必要ではない。というか、読まずに観た方がある意味純粋な映画体験を味わえるかもしれない。監督自身も最終的には作品が作品自身として味わわれることを望んでいると答えていた。

世界との関わり、その中で生まれる痛み、傷。ヒリヒリとした感覚が必然的に伝わってくる。その中に自分自身の過去の痛みさえも見える。デジャヴとまではいかなくても、「あの頃」の追憶。性別も違う、家庭環境も違う私でも、どこかものすごく共感でき、多感な頃を思い起こすのだ。

映画は3部構成。

第一部は「アリアとマリア」。言われたセリフが違っても、体験した出来事が同じではなくても、どこかで同じような傷を抱えた人は多いかもしれない。そう思わせてくれる世界と己の関わり。自分について言えば、心の中で無意識に棄却してきた物事、それを引っ張り出された感覚が強い。監督の感受性の豊かさ、過剰さゆえに映像化された強烈なクオリアがそれに貢献している。マリアはアリアと関わる様々な人物が混ざった存在である。真っ当に生きようとするアリアとそれを傷つけるるマリアと見える。ただ、どちら側にも自分の過去を観てしまう。

第二部、「Blue Through」。永遠を求めて、でも通り過ぎていってしまう。一瞬は永遠で、逆もまた然り。手に入りそうで決して手に入らない。自分の弱さ、未熟さが痛感される。日常で仮初の「社会」から非日常で本物の「世界」に出るために、出られると思って、でも長くは続かない。人と関わることの難しさや、関係性がどんなにか脆く儚いものであるか、過去とそこから逃れること、他者との交わり。もう二度と味わうことはなくても、その記憶は残り続ける。廃遊園地とキャンピングカーのロケーション、ガラス、映像の美しさがひときわ際立つ。

第三部、大森靖子さんのMという楽曲に映像が付けられた。監督自身の過去を描く歌詞にMVのような映像。教習車に乗って田舎道を走るシーンは、なんだかとても印象的だ。この歌の歌詞は、監督が大森靖子さんに書いた手紙が、その言葉ほぼそのままに歌となったものだそうだ。この楽曲により主人公が「可哀そう」と思われることに複雑な思いを抱えていたという監督が、その意味付けを自分で作り、語りなおすことを目指したのがこの映画だとも。この映画を観れば、単に育ちが可哀そうのような一面的で浅い見方で、この監督を、この作品を捉えることがいかに不適切かが痛感されるだろう。

3部構成は、その1つ1つをとっても、本当に美しい。さらに、その3つが合わさることで、うまく言葉では言えないが、何かしらの全体性が伝わってくる組み合わせになっていると思う。

映画を通して、光への感受性、詩。その美しさが、どこまでも印象深い。上映後のトークイベントで、「瞳孔が他人より開いていること気づいた」という趣旨のことを仰っていた。この世界の眩しさは監督自身のクオリアで、それが美しいのだろう。詩の表現ともあいまって、とても独特でとにかく体験の強度の強い作品になっていると感じる。ストーリーよりもクオリアという真っ当さが徹底されている。

人は誰しも、究極的には孤独だ。これは自分の「世界」は自分のクオリアに依存しているし、クオリアは人と同じかどうかは全く証明しようがないし、むしろ違っているのが普通なのかもしれない。それでも、自分の美しさを共有する愛、同じ辛さや孤独感、寂しさを味わっている人に伝えようとすること。これは監督の真っ当に生きようとすることなのだとしか思えない。監督の天賦の才と、その真っ当すぎる真っ当な生き方が組み合わさったことにより、このようなかけがえのない映画が作られたのだろう。だからこそ、2作目も楽しみで仕方がない。そんな映画体験だった。

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