「空気を読む」ことへの違和感を言語化してみた

私は長年、「空気が読めない」と言われ続けてきた。しかし、そもそも「空気を読む」とは何なのだろうか。今所属している集団内での自己保身に過ぎないのではないか。そんな疑問が常に私の頭の中をめぐっている。

多くの人々は、集団内で暗黙の了解や役割分担を無意識のうちに理解し、それを演じることで場の空気を作り上げている。例えば、「互いがこう感じているだろう」「この場の雰囲気を盛り上げるにはこうすべき」といった思考は、私には不自然で人工的な演劇ゲームに見える。

感情を費やしてこのような社会的駆け引きをすることに、私は根本的に疲れを感じている。他の人達はこのパターンを楽しんでいるように見えるが、私はそもそもそういった思考回路を持ち合わせていない。「空気を読む」とは何か、と問われてようやく気づくくらいに鈍感なのだ。

私の理想は至ってシンプルである。互いに好きなことは好き、嫌いなことは嫌いと率直に言える関係。決まりきったパターンを演じるのではなく、一対一でより本質的な対話をすることこそ、真の交流ではないだろうか。

人それぞれに深い孤独性があり、その孤独から生まれる独自の視点や感覚を共有することにこそ、本当の価値があると私は考えている。型にはまらない、生々しい内面的な対話を求めているのだ。

皮肉なことに、私も集団の中で自分の話を聞いてもらえる喜びから、完全に社会的パターンから逃れられているわけではない。自己顕示欲も十分に認識している。誰かを批判できる立場でもないが、人間である以上、完璧な一貫性を持つことは難しいのだろう。

結局、「空気を読む」ことへの違和感は、私の中にある本質的なコミュニケーションへの渇望から生まれている。型にはまらない、生々しい対話を通じて、互いの内面により深く触れられる瞬間を私は大切にしたいのだろう。

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