スペースふうとはくばく 1
山梨県富士川町のNPO法人『スペースふう』は、約20年前、各種イベントで提供される飲食物の使い捨て食器のごみの削減を目指して、日本で最初にリユース食器のレンタル事業を始めた団体である。
スペースふうの活動の歴史を紐解きながら、NPO法人と企業のパートナーシップの理想的な在り方についてのヒントを探ってみたい。
スペースふうとは
スペースふうの前身は、『スペースふう』という名のリサイクルショップで、地域の女性たち10名によって運営されていた。2003年、このショップの代表であった永井寛子氏が、メンバーとともにNPO法人を立ち上げ、現在に至るまで理事長を務めている。
「循環型社会の実現」という理念を掲げ、リユース食器レンタル事業のほか、同じ事業を始めたいという団体の立ち上げ支援や、マイクロプラスチック削減のプロジェクトなど、他の事業も手掛けている。また、コロナ禍以降は、リユースの弁当箱による高齢者や産後ママたちへの弁当宅配『ホットス』など、環境にとどまらず福祉分野へも事業を拡大している。
スペースふうは、永井がリユース食器のレンタル事業という構想を得てから、約1年で事業をスタートした。資金も設備もノウハウもなく、自分たちでも「ふつうのおばさんよー」と言う彼女たちが、猛スピードで開業までに漕ぎつけられたのはなぜなのか。
また、近年、海のマイクロプラスチックは周知の課題となり、日本でもレジ袋が有料化されるなど、SDGsに向けて世界中が取り組み始めているが、20年も前に、「ふつうのおばさん」たちが、社会の問題解決に先鞭をつけられたのはなぜなのか。
そう投げかけると、永井やメンバーたちは、「はくばくの支援がなければやってこられなかった」と口を揃える。はくばくとは、大麦をはじめとした穀物を扱っている山梨県の老舗食品メーカーである。
世界全体がSDGs(持続可能な開発目標)に取り組んでいる今、企業とNPOのパートナーシップも重要な要素となる。はくばくとの関係を軸に、スペースふうの20年間を振り返った。
スペースふうの誕生
2001年、ドイツ在住の環境活動家・今泉みね子氏の講演会で、永井は大きな衝撃を受けた。
「ドイツでは、どんな大きなイベントでもごみを出しません。洗って、何度でも使えるリユース食器を使っているからです」
今泉氏がそう言い切った瞬間、「これだ! 日本でもこれをやろう!」と、永井の脳裏にはリユース食器の構想が広がった。
当時、日本のイベントでは、ごみの80%を使い捨て食器が占めていた。そして、そのほとんどがプラスチック製であった。永井は、イベント会場で、使い捨て食器のごみの山を目にするたびに「これは何とかしなければいけない」と心を痛めてきた。
この講演会で「リユース食器ならイベントのごみ問題を解決できる!」と確信した永井は、早速リサイクルショップ『スペースふう』の会議で、この話を報告し、「私たちでリユース食器のレンタル事業をやろう!」と提案した。
しかし、永井以外の9名のメンバーは全員反対。
「資金もない、設備もない、ノウハウもない私たちに、そんなことできるわけないよ」
だが、永井も諦めない。
「でも、この使い捨ての文化を子どもや孫の代に引き継がせてはいけない。誰かがやらなければいけないことだと思うよ。誰もやらないなら、私たちがやろう!」
「これからの1年間、調査研究期間として、いろいろ調べてみよう。それで無理だ、となったら諦める。だけど、少しでも実現の可能性が見えたら、みんなで前に進めよう」
そう呼びかけて、メンバーたちを説得。こうして、NPO法人スペースふうが誕生した。
大きな壁
リユース食器のレンタル事業を手がけることに決めてから1年が過ぎたころ、スペースふうの事業計画は行き詰っていた。
永井が提案した調査研究として、まずは自治体や商工会、企業などイベントを主催するような団体を対象に、リユース食器についての意識調査を行った。その多くは「多少経費がかかるとしても、リユース食器の導入を歓迎する」という回答だった。社会にリユース食器を受け入れる素地はあることが明らかになった。
つぎに、専門家へのヒヤリングや保健所への問い合わせや食器を安く入手する方法などの調査を重ね、法的にもリユース食器の使用は問題ないとわかった。さらに、食器を安く作ってくれる製作所も見つけることができた。
そうして最後に残った問題が、資金調達だった。レンタル用食器を用意するには、金型から作る必要があり、その金型1つが百万から数百万円。数種類の食器を取り揃えようと思ったら、莫大な金額になる。食器の洗浄も、食器の数が少ないうちは、手洗いすればなんとかなっても、事業として成り立たせるには洗浄機が必要になる。それには、もっとお金がかかる……。この大きな壁を前に、計画はいったん立ち止まってしまっていた。
そんなとき、知人から永井宛に送られてきた雑誌「日経ビジネス」のコピーが、この行き詰った状況を一変させる。
特集タイトルは『NPOが企業を変える』。永井は「NPOが企業を変える? どうやって?」と首を傾げつつ読み進めるうちに興奮を抑えきれなくなった。
そこには、『現在、米国では行政や企業が対応できない領域をカバーするNPOが存在価値を高めつつある。NPOの活動を支援することで、企業価値も高めることができる。日本の企業も、いかに社会貢献するかが問われ始めており、利潤追求するだけでは取り残されてしまう』とあった。
「社会を変えていこうとするNPOを支援することが、企業の社会貢献になる、ということだ! よし、企業を回ろう!」
このとき、永井の脳裏にはある人物が思い浮かんでいた。それは、山梨大学工学部の伊藤洋教授である。伊藤教授と永井は、同じ審議会の委員を務めたことがあり、その発言から「幅広い人脈とさまざまな方面への影響力をもっている方なのだろう」という印象をもっていた。
永井は、名刺を頼りに伊藤教授に電話をかけ、アポイントを取りつけると、メンバーたちとともに研究室を訪ねた。
伊藤教授は、永井たちの話をひととおり聞くと、
「あなた方がやろうとしていることは、大変に意義のあることです。資金の問題で諦めるべきではありません! 私の紹介ということで、企業をめぐりなさい」
と、その場でいくつかの企業をリストアップし、さらに、リストの中のある企業名を指さした。
「まず、はくばくへ行きなさい! はくばくの長澤社長は、県内では、環境に関してもっとも見識の高い経営者のひとりです」
伊藤教授が推薦したのは、はくばくの2代目社長の長澤利久氏である。現在は勇退し、息子の長澤重俊氏が3代目社長を務めている。(注:以下、特筆しない場合は「長澤社長」「社長」は利久氏を指す)
さて、数日後。はくばく本社の一室に、永井とメンバー数名の姿があった。長澤社長は、永井の話に黙って耳を傾け、話が終わると、おもむろにこう言った。
「わかりました、協力しましょう。いくら必要ですか?」
「300万円です」
永井は、予想もしない展開に戸惑いながらも、とっさにそう口にしていた。同行したメンバーたちも、社長の温かい言葉に感激の涙をぬぐう。自分たちの話に真摯に耳を傾け、協力を申し出てくれたことが、ありがたかった。
のちに、長澤社長は「彼女たちの熱意と志の高さに胸を打たれました」と、この日のことを振り返っている。
さらに、社長は『スペースふうを支援する企業人の会』という応援団を設立。発起人には、アピオ、印伝屋、吉字屋、山梨貨物と、県内では知らない人のない錚々たる顔ぶれが名を連ねた。設立したばかりの小さなNPO法人にとって、名のある企業の看板は、信用を与えてくれたという。
こうして、永井たちは、伊藤教授のリストをもとに24の企業をめぐり、総額450万円もの寄付を集めたのだった。
(ライティング・島田環)