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ヒーン(Heeng)の扉の向こうにシルフィウム

 欧州で「悪魔の糞」と形容される白い粉末状のスパイスがあって、ペルシャ語でゴムを意味する “asa”に、ラテン語で臭いを意味する “foetida” が合体した Asafoetidaと名がつけられている。悪魔の糞の匂いを想像いただけるよう知られた物で説明すると「腐ったキャベツ」となるだろうか。このスパイスはインドではヒーン(Heeng, हींग)の名で愛され、広い国土の東西南北の地域性を超えて100%に近い水準でどの家庭にも常備されている。そう考えれば、ヒーンはインドの食文化を支えていると言っても過言ではあるまい。

この腐ったキャベツの匂いは、油で加熱すると甘い香りと香ばしい風味(かすかにレモンのような酢酸の風味も感じられる)を発するのだが、ヒーンのこの魔法のような使い方は、いつだれがどうやって発見したのか、インド料理を嗜む私は先人達の調理に対する造詣の深さを感じる。

ヒーン概論

 ヒーンは、フェネルの一種である多年生植物Ferula Assa-Foetidaの樹液を乾燥させた芳香性の樹脂で、植え付けから5年後に根や茎からオレオガム樹脂(oleo gum resin、油脂ゴム樹脂)を収穫するのだが、その樹脂を乾燥させて粉末にしたものだ。製品として販売されるときは、匂いを中和するために米粉やターメリックに混ぜて販売されることもある。

https://www.researchgate.net/figure/Ferula-assa-foetida-growing-wild-in-Mount-Telesm-Kermanshah-Iran_fig2_258697350

 ヒーンの原産地は中東で、植生はイランの砂漠地帯やアフガニスタンの山岳地帯にみられ、インドでは長く育たないスパイスだった。インドは長くヒーンの輸入国で、2020年にはアフガニスタン、イラン、ウズベキスタンから年間1,200トン(6千万ルピー(約1億米ドル)相当)を輸入し、世界で生産されるヒーンの40%をインドで消費している。インドは2016年からヒーンの国内生産の研究に着手し、イランから入手した6系統のヒーン型をカシミール地方やパンジャブ地方の一部で栽培する技法を標準化し、よ2023年にうやく少量の国産ヒーンを収穫した。

* パランプールにあるヒマラヤ生物資源技術研究所(CSIR-IHBT)は、ニューデリーの国立植物遺伝資源局(ICAR-National Bureau of Plant Genetic Resources (ICAR-NBPGR))を通じて、2018年10月にイランから6系統のヒーン型を入手し、インドの環境下での生産技法を標準化しました。

ヒーン小史

アフガニスタン、イランのあたりでは、10世紀のアッバース朝の料理書『Kitab al-Tabikh(レシピの書)』にヒーンのレシピがたくさんあり、中でもヒーンの葉(al-anjudhan)の煮込み料理(アンジュダニヤー)には1章が割かれている。同じ頃、インドでも既にヒーンは多用されていたようで、12世紀に南インドの王ソメスヴァラ2世によって書かれた『マナソラーサ』には、ヒーンを使ったレンズ豆の料理「ドーシカ(dhosika)」が紹介されている。それは「ウラド豆、黒目豆、グリーンピースをペースト状にし、ヒーン、クミン、塩、生姜で味付けしたクレープ」で、南インド料理の定番メニュー「ドーサ」の前身と想像される。

 そもそもインドにはいつヒーンが伝わったのかというと、どうやら紀元前600年頃に最初のヒーンが伝播したと推定されるそうで、その後紀元前328年頃のアレクサンダー大王のインド遠征を機にインドに広まったようだ。十六世紀にムガルがインド支配をしたころにはすっかりインド人の生活に定着し、1563年に西洋で出版された東洋の香辛料に関する最初の科学書である『Colloquies on the Simples and Drugs of India』を著したポルトガルの博物学者で医師のガルシア・デ・オルタによると「最も使われているスパイスはヒーンで、ヒンドゥー教徒は皆、ヒーンで料理の味付けをする」と書かれている。ジャイナ教やアユルヴェーダの世界がヒーンの風味や薬効に注目して使い始めると、広がりは単なるスパイスの次元を超え文化アイテムの色彩をも帯びたようだ。

【カーストとヒーン】

 文化アイテムとしてのヒーンについてはもう少し説明が必要かと思われ、その様子を記すと、不殺生で菜食のジャイナ教、並びに肉食に禁忌を設け菜食を標するヒンドゥ教の世界では、特に上流カーストの一部(バラモン階級)では、タマネギ、ニンニク、その他香味野菜は「媚薬」とされ摂取は精神的に好ましくないと信じられている。上流カーストでは儀式的な食事規範として香味野菜を使わずに、代わりにヒーンを使って香味野菜を使わずとも、あたかも香味野菜を使っているかのような風味を凝縮させた料理を食すようになった。バラモンにしてみれば、「下々の者よ、君たちに香味野菜を避けるこんな上品な食事はできないでしょ」といった優越的態度でを示した格好になる。時代の変化と共にカーストの階層化が進み、カースト間の食習慣の違いはより強調され、ヒーンは下位カーストから見れば社会の分断を象徴するスパイスとなり、自分たちもヒーンを使おうではないかとってインド社会に浸透していった。

ヒーンという名前

インドではどの家庭のキッチンにもあるヒーン(हींग、英語表記ではHeeng または Hing)という不思議な名前は、Sauraseni Prakrit(中世北インドの言葉)の𑀳𑀺𑀁𑀕𑀼(フォントサポートなし、hiṃgu)、或いは Sanskrit(サンスクリット語)の हिङ्गु (hiṅgu)から来ているそうです。原産地のイランやアフガニスタンのあたりではAnghuzeh (ペルシャ語)、haltit または tyib (アラビア語)と呼ばれているそうなので、ヒーンに似た音で探すとアラビア語のtyibが近そうなので、おそらくHeengという呼び名は、アラブとの交易のなかでこのあたりから来ているのではないかと推測します。インドでは他に、 jowani badian (ジョワニ・バディアン)、ジャイアント・フェネル、カヤム、ティンなどとも呼ばれます。

伝統医学とヒーン

ヒーンは古代インドより伝わるアーユルヴェーダの世界においても、vata dosha(神経系・呼吸器系、循環器系についての流動的・動的な制御)のバランスを整える最良の処方のひとつとされ、日常的な健康問題を解決するスパイスとして重宝されてきました。抗炎症作用、抗酸化作用、抗菌作用があるとされ、頭痛や生理痛に効くとされています。

* アーユルヴェーダでは、身体、精神、行動の基本的な制御原理を3つのカテゴリー(vata, pitta, kapha)に分類しており、この3つのカテゴリーはdosha(ドーシャ)と呼ばれ、人は誰しもこの三つのドーシャのどれか(または二つ以上の組み合わせ)が支配的になり、各人の体質として表出すると考えられています。

またアーユルヴェーダ以外の世界でも、Unani(ペルシャや中央アジアのイスラム地域で発達した医薬)、Sidha(南インドの医薬)といった伝統医学の世界でもヒーンは重宝されています。

なお上述のヒーンの効能から、ヒーンは逆流性食道炎や過敏性腸症候群にはよくないスパイスと言われています。また染色体の損傷を発生させる可能性が指摘されています。

インド料理とヒーン

インド料理(特に葉野菜と茎野菜のみを基本とするベジタリアンのジャイナ料理)では、ヒーンは、硫黄分の作用でタマネギの香りがするのでタマネギの代用として、あるいはニンニクの香りもするのでニンニクの代用として使われることがしばしばあります(仏教徒のベジタリアンはヒーンを食さないようです)。そしてこのヒーンの用法は、タマネギやニンニクを忌避するシェフが世界のあちこちに現れた現代において今一度注目されることとなりました。ちなみに西洋料理でヒーンを使っているレシピはあまり見ませんが、Worcestershire sauce(ウスターソース)では使われている、とのことです(下記ウスターソースの紹介文では、a touch of Indian spices for authentic flavor!とありますが、おそらくヒーンのことかと)。

【タルカ/テンパリング】

油で加熱すると甘い香りと香ばしい風味(かすかにレモンのような酢酸の風味も感じられる)を発するヒーンのこの魔法のような使い方は、タルカというインド料理の技法の中で大いに活かされる。小さな深鍋にギーを熱し、ヒーンを入れて甘い香りがたったら、クミンシード、赤唐辛子、カレーリーフといったホールスパイスを入れて、これらが油の中でジュワジュワと踊ったら、スパイスの香りの移ったギーをスパイスごとカレーの中に勢いよく注ぎ「ジュッ」という心地よい音を耳に聞き、沸き立つ香りを鼻腔に感じる。インド料理を嗜む方には今更だが、この「タルカ」の工程に入ると、キッチンのみならずレストランなら客席まで、家なら家中が、スパイスの芳香に包まれ、スパイス好きにはたまらない瞬間が訪れる。

タルカ・テンパリング

【効能】

ヒーンには消化を助ける作用が知られています。膨満感、ガス、消化不良を緩和するといわれ、消化に悪い豆や野菜を使った料理によく合わされます。豆料理の仕上げにタルカするダル・タルカはその意味で、消化の際にガスを発生する豆料理に、味も風味も消化効能も補う、素晴らしい調理技法の詰まった一品と言えます。

ヒーンは、血液の凝固を妨げるワーファリンの活性を増強するので、、ビタミンKを多く含む食品(納豆やクロレラ、青汁など)との組み合わせは良くないです。

お腹の調子が悪い時にバターミルクにヒーンを溶かし込んだ熱湯を少し混ぜて飲め(あるいはヒーンを直接ひとつまみ溶かす)、そうすると胃腸の調子が整うよ、と言われバターミルクを出されたことがありますが、日本人的にはお腹の調子が悪い時にバターミルク飲むとさらに悪化しそうなので、私はヨールルトにヒンを振りかけていただきました(お腹の調子は悪いままでした)。

【レシピ】

このヒーンを使ったヒーンの魅力を最大限に享受できる素晴らしいレシピがあるので紹介したいと思います。それは「ヒーン・トースト」です。

バターを熱して
溶けたバターにヒンを溶いて
パンをソテーして(例えば食パンを短冊状に)
焼けたらみじん切りにしたフレッシュコリアンダーの葉と塩をふりかける

https://www.breakingnaan.com/heeng-toast/

フレーク状のマルドン·シーソルトを振りかけると、さらに美味しくなる、そうですが、普通の塩で十分です。コリアンダーの代わりにパセリにすると、カフェ感が出て、オサレな感じです。

シルフィウム

 先日インドのネット記事でヒーンの前身として「シルフィウム」なるスパイスがあったことを知った。私にとってはヒーンが開いた新しい扉だ。歴史的にはヒーンはシルフィウムの代用品として人気が高まったそうだ。シルフィウムは紀元前6世紀から紀元1世紀ころまでの人々に好まれたハーブで、古代ギリシャ・ローマ時代には薬効と避妊のために人々はこぞってこのハーブを所望した。シルフィウムはリビア東部のキレナイカと呼ばれる地域にのみ生育し、"LASER" と呼ばれるゴム状の樹脂を分泌し、暴君ネロの占有欲の犠牲となり最も早く絶滅したハーブのひとつだそうだ。シルフィウムは当時の硬貨の図案にもなっている。

 アレキサンダー大王の軍はインドに攻め入る途中で、ヒンドゥークシュ山脈(パキスタン北方の現タジキスタンとの国境あたり)で自生していたフェルラ・アサフォエティダ(ヒーン)を偶然見つけた。大王の軍はこれをシルフィウムと間違え、軍の一部はマケドニアに持ち帰り、また一部は持ってインドに到着した。血気盛んな兵士たちで構成されるアレキサンダー大王の軍は、避妊薬としてこのスパイスを採取したと想像する。でも実は避妊の効果があまりなくて(シルフィウムだったら効果があったのかどうかはわからないが)、それでスパイスとして広まったのか、と想像したりもする。

 ところで避妊薬としてのシルフィウムは経口だったとあるのだが、男女のどちらが経口したのかは判明しない。経口も習慣的経口なのか、事の前後に経口するのか、甚だ不明確だ。シルフィウムの匂いがもしヒーンと同じだったら、あの匂いなので外用薬ではないと思いたい。外用だったら事の最中に、あるいは経口交渉において、すさまじいい匂いと格闘しながら情事に励まなければならず、ベッドも相当に臭くなると思う。やはり経口内服したのだろう。昔の娼館はひょっとしてヒーンの匂いで充満していたのだろうか、などと想像してしまう。まあもちろん愛する二人は匂いなんかどうでもいいのかもしれないが。

 また先述の『マナソラーサ』には、ヒーンを水に溶いて摂取するレシピもあり、これは西インドのマハラシュトラ州やグジャラート州で今でも続いているレシピだ。これはひょっとしたら西インドにはヒーンを経口摂取して避妊薬として使っている事例なのかもしれないと、ドキドキしている。今度現地人に聞いてみたいと思う。

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参考文献一覧

Poonam Mahendra and Shradha Bisht
Ferula asafoetida: Traditional uses and pharmacological activity
Pharmacogn Rev. 2012 Jul-Dec; 6(12): 141–146.

BreakingNaan in Recipes
Heeng Toast
January 2, 2017

Zaria Gorvett
The mystery of the lost Roman herb
https://www.bbc.com/future/article/20170907-the-mystery-of-the-lost-roman-herb
8th September 2017

India Education Diary Bureau Admin
CSIR-IHBT Efforts to enhance cultivation of Heeng and Saffron
https://indiaeducationdiary.in/csir-ihbt-efforts-to-enhance-cultivation-of-heeng-and-saffron/
On Jun 9, 2020

Vidya Balachander
ASAFOETIDA’S LINGERING LEGACY GOES BEYOND AROMA
Aug 19, 2020

IANS 20 October, 2020
CSIR Introduces 'Heeng' Cultivation in Himachal's Lahaul Valley to Utilise Waste Land
https://weather.com/en-IN/india/environment/news/2020-10-20-csir-introduces-heeng-cultivation-in-himachals-lahaul-valley
20 October, 2020

Milan Sharma
Heeng will now be cultivated in India for first time in cold-dry Himachal district
https://www.indiatoday.in/india/story/heeng-cultivation-in-lahaul-spiti-1733259-2020-10-20
Oct 20, 2020

Aparna Alluri, BBC News, Delhi
Asafoetida: The smelly spice India loves but never grew
https://www.bbc.com/news/world-asia-india-54617077
22 October 2020

This is why you should consume Asafoetida (Heeng) daily, Mar 10, 2021
https://timesofindia.indiatimes.com/life-style/food-news/this-is-why-you-should-consume-asafoetida-daily/photostory/81436168.cms

Raju Sajwan
Tantalising wait: Will India be able to harvest its own ‘heeng’
11 December 2021

Madhur Jaffrey
Asafetida, India’s Odorous Taste of Home
https://www.newyorker.com/culture/kitchen-notes/asafetida-indias-odorous-taste-of-home
October 14, 2022

Shalbha Sarda, CNN
Devil’s dung or dinner delight? The story behind hing, one of India’s most divisive ingredients
https://edition.cnn.com/travel/article/hing-indian-food-intl-hnk/index.html
January 15, 2024

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