1.17と3.11
阪神間で育った故、1.17は特別だった。
特に1995年の4月生まれ以降の代だったため、ことあるごとに震災を経験していない世代と揶揄され、「震災後生まれが〇〇する」という文言は地方紙によく添えられた。私たちの2分の1成人式は即ち震災から10年の節目であり、その意味合いの方が強かった。毎年1月17日には防災訓練が行われ、担任の先生が当時の体験を語ってくれた。涙を流しながら、PTSDと闘いながら言葉を紡いでくれた恩師たちの話は今でも鮮明に覚えている。そこまでして伝えたかった地震とは何か。幼心に「知る」という責務を感じ図書館で地震のコーナーの本を片っ端から借りた。なかでも「地震のひみつ」はよくある学習漫画だったのだが、今までの日本で起こった大地震の被害が漫画で生々しく描かれており関東大震災の火災旋風のシーンは強烈な印象を受けた。また、長く神戸に住む祖母の家は被害こそ受けなかったもののその人生において大きな影響を与えた阪神淡路大震災の写真集が揃えられており、復興輝かしい神戸の生まれ年の惨状を知った。
このように人よりは少し"震災"という事象に意識があった私は、縁があって神戸の企業に就職し、そこでも1月17日は特別で当時の話を聞くことは多く、上司が復興に奔走された話は使命感に駆られた。
その後大阪の事業所に勤めてからその捉え方が全く違うことに軽くショックを受けた。数十キロ東に行くだけで1月17日は何も変哲の無い冬の一日になるのである。被害が集中する直下型地震はこんなところに意識の影響をも及ぼしていた。
私にとっての3.11はどうか。当時私は中学生だった。定期テストから解放され、体育館で部活に励んでおり、震度3の揺れには全く気が付かなかった。部活を終え機材を部屋に運び込むとテレビを囲む先生方が見えた。
テレビに映る知らない土地の津波の映像は迫力のあるパニック映画のようでそこに人がいて、生活があったということまでイメージできていなかったと思う。ただテレビの端で赤と黄に点滅し続ける日本列島に畏怖していたのである。理解乏しくどこか他人事に感じていた。
大学生になり、旅行が趣味になった。自身の非日常とその土地の日常が混ざり合う感覚が好きで各地を巡った。東北を訪れた際、一ノ関から仙台への移動を当初東北本線を使用する予定だったが、時間があったので少し遠回りして仙石線を利用してみた。そこで見たのは延々と更地が続く海岸線沿いだった。東日本大震災から5年後、2016年のことである。幼少期の神戸は既に今に近しくビルが立ち並んでいたのでその復興スピードの差に驚いた。その後改めて「知る」ことに向き合い数々の映像資料で津波の恐ろしさを知った。
先日、東東北の3.11伝承ロードの旅をしてきた。
きっかけはFukushima50を見たことである。訪れてみたかった東電の資料館とアクアマリンふくしまに行くタイミングは今だと思い、大人の修学旅行を決行。福島→陸前高田→気仙沼を訪れた。
ひとつにまとめる予定だったが、思いのほか導入が長くなったため、次回に続く。