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肖像画のみかた



近世日本の肖像画の多くは軸装になっていて、折あるごとに開いて床に掛けるように作られています。西洋の城館の廊下に飾るような油絵の肖像とは違い、床の間と言う神聖な空間の壁に飾る、=崇拝の性格を持っていたところが大きな違いです。

さて、その肖像画は、本人が生きている時に描かれたものでしょうか、それとも死後に追慕で描かれたものでしょうか

それは肖像が向いている向きで判別できます。

自分から見て左(肖像とっては右)に向いていたら死後に描かれたもの。逆に自分から見て右に向いていたら生前に描かれたものとなります。

◾️右向きの肖像(生前の絵)
生前にお墓を作ることを寿陵などと言い、おめでたいものとして墓石屋さんはセールスしますが、晩年近くになって描かれた生前の肖像画は寿像といって、長寿を願う意味につながったとも言われます。本人の意思で描かれたとされるものに、毛利元就像や池田光政像が見られます。



◾️左向きの肖像(死後の絵)
しかし、教科書で見る戦国武将の肖像画はほとんどが左を向いてます。



織田信長像(後述)、豊臣秀吉像(同)、徳川家康像、伊達政宗像や森長可公像などで、これらは没後の肖像です。
没後間もない頃に描かれた作品は本人を知っている人物(嫡子であったり側近など)が監修して描かせているので面影は近いはずと考えられます。

岐阜県には森長可公の肖像画が左向きで描かれますが、これは遠い江戸時代の作。
残念ながら本人を見たことがある人物が製作したものではありません。
ただ、描いた当時にはさらに古い長可公の肖像画があった可能性もあり、それを参考にしていれば、全くの否定もできません。

◾️謎の正面向きの肖像
不思議なのは正面に描かれた絵。
事例は極めて少ないですが、これがよくわかりません。三方ヶ原の戦いで武田軍に敗れ、糞を漏らしても逃げ落ちた徳川家康が、その時の苦渋を忘れないようにと描かせたものがあります。


これの用途は他の肖像のように崇拝や礼拝の対象ではなく、思い出すための「資料」だったこと。家康自身、これを部屋に掛けて向き合った可能性が高いもので、正面を向いていることに意味があったものです。

そして島津義弘の肖像です。


島津義弘は関ヶ原の戦いで家康の陣を正面突破しようとした猛将で知られますが、晩年は出家して僧形になっています。
没後の絵なら僧形で描かれるのが自然なので、出家前、つまり生前に描かれたような気もしますが、史料の状況から400年前のものであるかは判別できませんでした。

戦国時代の武将はほとんどが左向き(没後の絵)であるのが特徴的です。これは御家の存続と領地の確保と保全が第一で、自分の絵を残すことまで頭になかったかもしれません。

◾️装束でわかるその人のポジション
肖像画はスナップ写真とは違い、一眼でその人物がどう言う人であるかが分かる情報を、できるだけ画角内に盛り込みます。


その人物が着ることができた最上級の装束を身につけるのがステータスとされ、徳川家康や伊達政宗などは、従四位以上でないと着用ができない衣冠束帯の正装で描かれます。

◯僧形で描かれる利休像
千利休居士(表紙)は袈裟を掛けた法衣や十徳(じっとく)姿で描かれることが多いですが、一般市民である地下人(じげにん)というランクの千宗易では秀吉が宮中に参内する際に同行ができないので、天皇より「利休」と言う名を特別に下賜され、僧職となった千利休にとってはこれが正装となります。利休像のほとんどが左を向いているので没後の作品で、利休のそばで稽古を受けた高弟や門人たちが思慕の念をもって描いたものが現代に伝わりました。

◯権威主義を避けた信長像


有名な織田信長もこの装束を着る資格があり、大徳寺総見院にはこの姿の木像がありますが、一方で教科書でも知られた裃姿の肖像もあります。左向きで没後の絵ですから束帯であっても良いのですが、生前は太政大臣や左大臣の任官要請を避けるなど、武力を盾に朝廷に圧力を加えていた信長ですから、それに従う姿にも繋がる権威表現は敢えてしなかった意図が感じられます。

◯特別な許可を表現した秀吉像


一方で面白いのは豊臣秀吉像です。
教科書でも知られるその白い装束は直衣(のうし)と言われる、公家の普段着に近いもの。
豪華絢爛な背景にこの装束は実はちょっとアンバランスなのです。

太政大臣を務め、それを退いて太閤となった秀吉は人臣の最高位に君臨した人物ですから、正装は当然衣冠束帯です。それに信長ほどに朝廷との諍いは起こしていませんし、太閤の称号をありがたく思っている秀吉は権威表現は大歓迎だったはず。しかし普段着です。

これは特別な意味を持ちます。

宮中、すなわち天皇の前に公式に出る際の服装は衣冠束帯であるべきですが、太閤は隠居した元太政大臣ということで、特別に直衣での出仕が許されていました。
逆に言えば、直衣で天皇の前に出ることができる唯一の人物ということになります。
それを表したかったのがこの豊臣秀吉像とも言えるかもしれません。

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