社会に誰も存在しない社会
朝のワイドショーを見ていていつも引っかかるワードがある。
それは、"社会派"という言葉。タレントがなにか政治や社会問題に対するについての自分の意見を述べたりすると「社会派タレント」と言われたりするあれだ。
なぜ引っかかるのか。それは、社会についてみんなが考えていない前提で、社会問題についてコメントできる人に対して使われる言葉だからだ。
もうひとつ、引っかかる、あまり使いたくない言葉がある。それは"社会人"とか"社会に出る"という言い方。
なにが引っかかるって…?人は生まれたときから社会人だと思うから。生まれた時点でどこかの社会に必ず存在することになるから。
わたしは今年の3月に大学を卒業したので、今年"社会人"になったというべきだと思うけれど、大学のときから社会のことは考えていたし、自分が社会のなかにいる意識があったから、あまり自分から積極的に「社会人になって…」とかは言わないようにしている。
でもみんなが引っかからずにその言葉を使えるのは、それくらい子ども時代に、わたしたちが学校に閉じ込められ、社会から隔離されているからだと思う。
いわゆる"社会人"になるまで、社会のことなんて考えてもいないし、"社会に出る"といういい方に違和感を覚えないほどに、それまで文字通り社会にいない、ということなのだと思う。
そんな風に、いかに日本という社会に生きる人々が、社会とつながって生きていないかが、日常的に使われている言葉の端々に現れている。
ピカピカの知識
わたしの好きなコラムを紹介する。
治安維持法とはなにか、残念ながら知識をピカピカに磨いてきてしまった人に説明すると(というわたしも大学に入ってから知ったのだけど)、
治安維持法とは、もともと共産主義革命運動の過激化を懸念して制定された法律。
しかし、権利や自由を主張する人・市民運動を行う人など政府の方針に逆らっているように見える多くの人が逮捕された、簡単に言えば「国の方針に従えない者は逮捕しても、なんなら殺してもOK!」という法律だ。(超簡単に言えば。)
治安維持法が制定された1925年から廃止されるまでの20年間に、逮捕者数十万人、送検された人75,681人、警察署で虐殺された人95人、刑務所・拘置所での虐待・暴行・発病などによる死者は400人あまり。
(そののち政治的自由への弾圧と人道に反する悪法として廃止されたけれど、その犠牲者に対して政府は謝罪も賠償もしていない。世界では、ドイツ、イタリア、アメリカ、カナダ、韓国、スペイン、イギリスなど主要な国々で戦前・戦中の弾圧犠牲者への謝罪と賠償が進んでいるにもかかわらず…。)
そんな法律だったなんて知らずに、一生懸命、知識をピカピカに磨いていた中学時代を思い出し、悲しくなった。
そんな時代が日本にもあったのか、と思った人はいるだろうか。いやいや、今日まさに同じようなことが起こっていはいないか…?
余談だけれど、週末の衆議院選挙。安倍首相の演説の観衆にいた、「安倍やめろ!」と叫んだ人が警察に取り押さえられたり、はたまた、安倍首相に対して聞きたいことを書いたプラカードを持っていただけの人までもが警察に取り押さえられた。
改憲案では、憲法から「基本的人権」の文字が削除されたり、秩序を害する表現の自由は認められなくなり、緊急事態宣言が出されれば国民のすべての権利は奪われる可能性がある。
いや、そんな政治的主張がしたかったわけじゃない。
ともかく、社会から切り離された宙に浮いた”チシキ”を覚えてきただけなのではないだろうか。
投票率は48.8%だったそうだけれど、小学校から大学まで、学びが社会と断絶しているのだとしたら、選挙権を得たところで急に社会について考えなさいと言われたって困るだろう。
約半分の人たちが、社会とつながって生きられていないということなのではないだろうか。
社会のことを考えている人はすごい、みたいな風潮に触れるたびに、社会という言葉を使いながらも、その社会には誰も存在していないような気がしてくるのだ。
今日、7月23日、今わたしが作業しているスターバックスコーヒーには、試験を控えた学生で溢れている。となりには、法学の教科書を開いた学生。憲法が改正されようとしていることを知っているのだろうか。知識だけピカピカに磨いてはいないだろうか。