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加藤智大氏への死刑執行を受けて

昨日、「秋葉原無差別殺人事件」の加藤元死刑囚への死刑が執行された。それにまつわるわたしの考えを、わたし以外の方の意見も引用しつつ書いていきたいと思う。

メディアで取り上げられていた、事件の被害者であるタクシー運転手の男性は、「事件への責任を果たしてほしい」と少し怒りの混ざった声色で言っていた。そして、同時に、「秋葉原無差別殺人事件のような事件が二度と起きないでほしい」とも言っていた。

しかし、当時25歳(今の私と同じ歳)だった加藤元死刑囚には、友人もおらずネットの掲示板にしか居場所がなかったそうだ。そして、そこでも仲間外れにあってしまったことが動機のひとつともいわれている。

そんな状態に追い込んでしまい、無差別に人を殺すという思考に至らせてしまった社会に問題があるのではないか。

自分が被害者だったら、加害者への恨みは必ず抱くのでそのタクシー運転手の方のような言葉が出てくる気持ちも計り知れるが、

これは、無差別事件を個人の責任にし、若者の孤独をつくってしまった社会に責任があり、加害者だけでなくわたしもそのタクシー運転手の方も含めた社会の問題であることを隠していくような言葉だと感じた。

そもそも、わたしは死刑に反対だ、それは奪われてよい命などないからだ。そして、死刑が執行された昨日は「相模原障害者施設殺傷事件」から6年という節目の日でもあった。

秋葉原の殺人事件の被害者の方々が無差別に殺されたこと、津久井やまゆり園の障害者の方々が無差別に殺されたことに反対するのと同じように、奪われてよい命などひとつもない。

わたしは、刑務所のあり方や死刑制度にずっと疑問を抱いている。

なにかの事件を起こしてしまった人は、そうならざるを得ないほどに、もしかしたら極度に人とのつながりや愛情が足りなかったかもしれない、仕事について誰かへの貢献感を得ることができなかったかもしれない、どんな環境に行けば幸せに生きられるのかがわからなかったのかもしれない。

つまりは人権を大切にされて来なかったのだと思う。

そんな風にむしろ社会の被害者であるのに、なぜ本人に「更生」が求められ、さらには過度に厳しいルールのなかで生活させられたり、刑務所内でリンチにあったりと、より人権のない生活を送らなければならないのか。

刑務所の管理にかかるコストを、事件を起こしてしまったひとが社会のいろんな人や場所と接続し、愛情を受け、つながりを感じながら豊かに暮らしていくことができるのかを考えるために使えないのか。

これは、いじめに関しても同様だ。

欧米の一部では、いじめてる方を病んでると判断するそうです。いじめてなきゃやってられないほど病んでる。だから隔離して、カウンセリングを受けさせて、癒すべきだと考える。でも日本は逆です。いじめられてる子に逃げ場を作ってなんとかしようとする。でも逃げると学校にも行けなくなって、損ばかりすることになる。DVもそうだけど、どうして被害者の方に逃げさせるんだろう。病んでたり、迷惑だったり、恥ずかしくて問題があるのは加害者の方なのに。

『ミステリという勿れ』

今後も自分にできることは少ないかもしれないけれど、加害者だけの問題にしてしまうこと、社会の問題と捉えないことに関して、NOと言っていきたいと思う。


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そい|内藤千裕
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