呪ー呪ートレイン
ホコリと古い木材の臭いがする。
なんとなく、ノスタルジーを誘う臭いだった。ここに置かれている、年季の入った品々がそう思わせるのかもしれない。
僕はこの蔵に、変わり果てた友人を元に戻すためにやって来た。彼は呪いを受けてしまったのだ。
あるいは、それは福音であったかもしれない。
陰惨たる世界にさした一筋の光であったかもしれない。
それでも僕は、一世一代の覚悟を以て、彼の光を閉ざさずにはいられないのだ。
それをできるのは、彼の数少ない友人である僕だけなのだから……
何に促されるでも、邪魔されるでもなく、眠りから覚めた。ぼやけた頭で携帯を見ると、午前八時を回ろうか、という時間だった。こういう日は少し豪華な朝食を作りたくなる。
冷蔵庫を開けたところで携帯が微かにふるえた。見ると、通話アプリに学友からのメッセージ。
『話がある。部屋まで来てくれ』
彼があまり連絡をよこさない性分なことと、なによりその文言の短さが緊張感を伝えていた。冷蔵庫から漏れる空気が肌を刺す。
僕も返信を面倒がって、あまり話し掛けないせいで、画面に表示された履歴は閑散として、余計にそれは目立って見えた。
しかし、今日ばかりは、筆不精バトルしている普段とは考えられない速度で、了承した旨のメッセージを送る。
これは友人として駆けつけないわけにはいかない。身支度を整えて、朝食を、白米と焼き鮭とみそ汁と納豆と卵と海苔で適当に済ませて、自転車にまたがる。
漕ぎだす直前、また通知が鳴る。見てみると、送られてきたのは謎の美少女の画像……いや、少女のようだが肩幅など骨格をみると男性、いわゆる「男の娘」のようだ。しかも前髪で目が完全に隠れて、ただでさえニッチな男の娘属性にメカクレ属性まで加わっている。実に興味深い、じゃなくて、なぜいまこんな画像を?
いや、キモオタの言動をいちいち気にしてても仕方がない。
既読無視して自転車を走らせる。
まだ少し冷たい風を感じつつ、愛車を漕ぐこと数十分。
部屋についたと伝えると、勝手に入ってくれと言われたので、遠慮なく玄関をあける。
殺風景な玄関には出迎えの姿はない。愛想がないのは通常運転のようだ。
廊下を少し進み、目に飛び込んできたのは、部屋の三分の一ほどをしめているベッドに、途方に暮れたように座り込んでいる、どこかで見たようなメカクレ男の娘だった。
僕が絶句していると、彼……彼女?が口を開く。
「おい、既読がついてから一時間も経っているじゃないか。何してたんだ」
「いや、丁寧な暮らしをしてて、それよりまさかその憎まれ口は?」
彼は苦い顔でうなずいた。信じがたいことに、目の前のメカクレ男の娘は、僕の友人だった。ということは先ほど送られてきた画像は自撮りということになる。
こいつの自撮りでテンションを上げていた僕って……思考が危険な方向へシフトしていきそうになるが、脳の働きを完全に停止させることで事なきを得た。
「いったい何があってこんな姿に?」
僕が尋ねると、一瞬ためらったような仕草を見せて、やがて話し出した。
「信じてもらえないと思ってるわけじゃないんだが、なにぶん俺もまだ混乱していて、上手く話せないかもしれない」
事は、彼が帰省中、実家の蔵の掃除の手伝いを頼まれたことに端を発するらしい。
面倒だと思いつつ、断る理由もないので、い言われるままに駆り出され、掛け軸や古い家具なんかを運んでいき、一段落ついたというころ。
妖しげな骨董や舶来品が並ぶなかに、ひときわ傷んだ箱を見つけた。
普段の彼なら、開けていいものか確認をとっただろうが、その時は不思議とそれに強く惹かれて、開けてしまったという。
そこからの記憶は曖昧で、気がついたら自宅に帰っていたらしい。
いくら帰り支度を済ませていたといえ、覚えていないのはおかしいと思いつつつか疲れからかその日は寝てしまった。
そして目が覚めて姿見を見た時、事態に気付いた言う事だ。
「お前には蔵に行って、箱の中を確かめてほしい」
確かに、今の彼が実家に戻ったらパニックは必至だ。
家族に見られたくないという、個人的な思いもあるだろうし。僕に連絡したのも、葛藤の末なのかもしれない。
彼は弱みを見せたがらなかった。
「要件は分かったけど、今日のサークルはどうするのさ。学校は春休みだからいいかもしれないけど」
「何言ってんだ。二人とも浮いてるんだから、もとからサボり気味だったろう」
愚問だった。僕らは所属する漫画研究会で、『尼僧になったしずかちゃんがのび太にひたすら説法を聞かせる』という同人誌を披露して以来、うっすら無視されているのだ。
思い残すことも無くなったところで、さっそく出発しようと立ち上がると、彼が小さくあ、と漏らす。
「いや、大したことじゃないんだが、その、今の俺ってどんな感じに見える?」
「うーん、大げさだけど、ぱっと見では本当に美少女にしか見えない、かなぁ」
「そうか」
短く言うと、ベッドに深く座りなおす。
「……さっきの自撮り、僕以外に見せたりした?」
「見せられるわけないだろ、こんな状態を。ほらさっさと行って任務を果たしてこい」
追い出されるように駅に向かい、彼の実家方面の切符を買う。
思ったよりぎりぎりになってしまい、駆け込みぎみに乗り込むと、間もなく電車が動き出した。
窓の外で、まだ蕾の桜が流れていく。咲き始めるのも時間の問題だ。
黒ずんだ箱の中に、人形が行儀よく収められている。
「もしかしなくても、これのことだよな……」
木彫りの体に、人形サイズの和服を着せた格好だ。
さきほどの自撮りと見比べると、やはりというかなんというか、同じ服装だった。
丈が異常に短いのがシュールだが。
と、下のほうに目をやったせいで、ふんどしを履いていることに気づいてしまった。ということは今自室で待っている彼も……そこまで考えたところで気絶。ふたたび脳を守ることに成功する。
「とはいえ、これをどうすればいいんだ。お寺、いやお祓いは神社だっけ……に持っていこうか」
そうはいっても、それができそうな場所に心当たりはない。彼の意見も聞いてみよう。人形の写真付きでメッセージを飛ばすと、間もなく返信が来た。
『全く見覚えがないし、解決策についても見当がつかない』
やはり記憶は無かったか。開けた時のことが分かればヒントになるかもと思ったが……
『一応人形は回収しといてくれ』
え、これ持って帰るの!?嫌だなぁ……僕まで呪われたらどうするんだ。
しばらく座り込んでいると、
「探しものは見つかりました?」
と声をかけられた。振り返ると彼のお母さんが立っていた。そういえば、忘れ物を代理で取りに来たという設定だった。
「はい、バッチリです」
「全く,こんなところまで取りにこさせるなんて。ごめんなさいね、あの子、いつもわがままで大変でしょう。愛想も悪いし」
本当ことしか言われず、苦笑で返す。嘘や不正を許せない実直な性格で通っているがこういう時に気の利いた返しができないのというのは考えものであるのだなぁ。
「あ、そういえば時間は大丈夫なの?」
確かに、今から帰っても少し遅いくらいかもしれない。門限なんていう歳でもないが、なれない土地で夜道を歩くのはあまり賢くないだろう。
明るいうちに撤収することにした。
「またいつでも来てね。あ、これお土産のりんご!」
ビニール袋にずっしりと入ったりんごを持って、蔵をあとにする。なんかあったかい……またこようカナ。
帰りの電車に揺られながら、ぼんやり車窓の外を眺める。くすんだ水色を薄く伸ばした空に、同じくぼんやりと月が浮かんでいた。満月だ。
そういえば、あの時もこんな月だった。
耐え難き新歓コンパを耐え、店を出る。他のメンバーが熱冷めやらぬと言った感じで、近くの適当な公園で話し込んでいるとき、誰かがあっと声を上げた。
見上げると、見事な満月が輝いている。
テンションが上がっているのも手伝って、こぞって携帯を取り出し、撮影を始める面々。
それを、僕たちは遠巻きに見ていた。
「意味が無い!」
木に寄りかかって、彼が吐き捨てる。
「また文句言ってるよ。月好きだけどなぁ。丸いし」
「別に月が嫌いなワケじゃない」
スマホのカメラで撮ったって、目で見えるほど綺麗に映るわけないだろう、と彼は言う。
「それはまぁ、そうだね」
「スマホのレンズと同じなんだよ、奴らも」
「僕らの合作がウケなかったのも、目が悪いからかも」
僕の軽口に、彼が珍しく失笑する。
でも、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
そして、しばらく月を見たあと、おもむろに木から離れ、僕に向けてスマホをかざした。
「ど、どうした?」
「いや、近くにもっと撮るべきものがあると思って」
彼の視線を追って上を見ると、枝と葉を茂らせた木、しかし、枝の先には薄紅の花が、数える程だが残っていた。
「ほんとだ」
僕が言うと、彼は肩を竦め、どこからか運ばれてきたタバコの匂いに、少し咳き込んだ。
今日の月をみていたら、急にそんなことを思い出してしまった。人の記憶というのは、不思議なものだ。
ふと、正面に向き直りTwitterを開く。
「……んん!?」
そこで、今日何度見たかわからない男の娘の自撮りが、凄まじい速度で拡散されているのを、目にしてしまった。
新しいアングルも追加されている。なにやってんだ!
すかさず彼に連絡する。電話は……流石にはばかられるので文章上で。
『ちょっと、なんかバズってるんだけどなにやってんの!』
『別に俺の勝手だろう』
『いや良くないって!上手く言えないけど消した方がいい気がする』
『うるさいな、いつか戻るつもりなんだ。今くらいいいだろ』
それきり返信をよこさなくなった。
部屋を出る直前、質問をしてきた時から様子がおかしいとは思っていた。そもそも、僕を呼ぶのになぜ自撮りを送ったのか。少しでも混乱をやわらげるために事前に見せたと思っていたが、彼がキモオタクであることを考慮すれば、先に精査すべき可能性がある。
可愛くなった自分に舞い上がって、思わず写真を撮ってしまったのではないか?
もとの姿に戻ろうとする彼も、間違いなくいるだろう。しかし、ついに今の自分を誰かに見せたいという欲、衝動が勝ってしまった。
僕だって同じことをやらないとは断言できない。しかしこれはあまりにも……
麻薬、ついついそんな言葉が脳裏によぎる。
もとに戻る手段が見つかったとして、彼はそれを望むだろうか?
返信がないまま電車は最寄り駅につき、人の流れに飲み込まれるように、僕も駅の出口に向かう。
結局その日は、そのまま家に帰ってしまった。
翌日、嫌な予感がしてサークルに顔を出すと、部屋は騒然としていた。
話題は、突如漫研に現れたメカクレ男の娘だ。
まさか、サークルにも出向いていたとは。もしかしたら、この呪いには理性を鈍くさせる作用もあるのかもしれない。
Twitterを開くと、新たな自撮りがアップロードされ、数十件の彼を褒めちぎるリプライが付いている。
目眩のような感覚がして、外に出てそのまま構内をあてもなく歩く。そのうちつかれてベンチに座りこんでしまった。
「あら、どうしたの。まるで友人がメカクレ男の娘になる呪いを受けたみたいな顔して」
「僕の表情筋ってもうそこまで来てるんですか」
知らない間にアプデで実装されたのだろうか。
声がしたほうに振り替えると、そこにはオカ研の部長の姿があった。彼女とは高校の文芸部からの縁で、その時も部長だったので、僕はずっと部長と呼んでいた。
部長は僕の対面に座る。
「こういうときだいたい隣でしょ。そこ地面ですよ」
「ワハハ」
部長は白目を剥いて笑ったあと、近くを歩いていたダンゴムシを投げてきた。なんなんだよコイツゥ〜〜!!
「漫研に男の娘が現れたって噂が私の耳にも届いててねぇ。冗談で言ったつもりだったのだけど……」
そんな偶然があるかい、と思ったが、それを追求するのも不毛か。
「今は、解決策が見つからなくて、足踏みしてるって感じかな?」
「それもなんですけど、彼が戻りたがらないんじゃないかと思うと、自分がどうするべきかわからなくなって」
そうだ。部長に打ち明けて、改めて葛藤の正体と向き合う。自撮りの中の彼は、これまでになく生き生きしていた。サークルに顔を出せたのも、以前の彼では考えられなかった。
傍から見れば、明らかにメカクレ男の娘としての彼のほうが幸福なのではないか。
もとに戻ったほうがいいなんて、僕のエゴでしかないんじゃないか。
「彼との交流は、君ほどは無いけど、たしかにいつもかみつぶした苦虫を青汁で流し込んだような顔をしていたねぇ」
「そうですね」
僕の気の抜けた相槌に、部長は切れ長の目を細める。
「あの時の彼が今の彼を見たら、なんて言うかな」
間違いなく文句を言うだろう。自撮りツイート自体はブックマークに登録しながら。前に僕が部室でVtuberの配信を観ていた時も、「中身は一般人だろう」と言いながら、横でずっと観ていた。
「きみ部室でVtuberの配信みてたのか」
「今はいいでしょうその話は」
「……まぁ今の彼は満足かもしれないけど、呪われたままって保証もないでしょう?だったら、依存しきるまえに戻すのが得策、という考え方もできるんじゃない」
一理ある。彼を傷つけてでも、元に戻すべきかもしれない。いやしかし……
「それにね、私は君の気持ちも大事だと思うな。君は、どっちの彼が好き?」
「僕の気持ち……」
視線を落とすと、自分の靴が目に映る。
そういえば、彼に靴紐が解けていることを指摘すると、決まって言っていたことがあった。
「靴紐が結べないなら履かない方がいいって。危ないよ」
「うるさいな、この靴がいいんだよ。靴紐が結べなくたって、靴を履く自由はあるだろ」
彼はそう言ったあと、自分の靴紐を踏んでこけていた。
たしかにあの靴は、彼に似合っていたように思う。
今の彼は、あの靴を履くだろうか。
「……部長の言う通りです。たしかに彼は、下賎に下賎を重ねて卑劣で挟んだような男ですけど、それが僕の友人なんです」
「そこまで酷いなら、そっとしといた方がいいような気がするけど、君が吹っ切れたみたいで良かったよ」
気持ちが固まった。こうなれば早速行動だ。
「部長のおかげです。ありがとうございました」
珍しく素直に、部長に感謝を伝える。
変な人だけど、やっぱり僕にとってはいい先輩だ。
「お礼なら、後輩との会話を安価で決めるスレのみんなに言って頂戴」
「僕の感謝を返せ!」
「そういえば、部長はオカルト研究会ですから、オカルトの研究をしてますよね」
「オカルト研究会だからね」
部長に、例の人形を見せてみる。
「う~ん、さすがにこれだけじゃ何とも言えないな」
「ですよね……」
ダメ元だったが、やはりこれだけでは厳しいか。
うなだれる僕を見かねて、部長がいろいろ教えてくれた。
「でも、人形を使った呪術ってだけでも推理できることはあるよ」
「髪が伸びるやつとかですか?」
それはどちらかというと、人形のほうが呪われてるかも、と部長が苦笑する。
「丑の刻参りのほうがわかりやすいかな。あれは体の一部を人形に使うことで、人形と相手を、呪術の上で同じ存在として扱うってことだよね」
なんだか、講義みたいになってきたな。
雑念が混じりそうになるのをなんとか集中する。
「でも、開けた時の状況もわからないし、彼と人形を結びつけるようなものが見えてこないんですよね」
フム、と部長が短くうなる。
「シンプルに人形を燃やしてみるとか?」
僕の提案に、部長はそれはちょっと……と難色を示した。
そういえば、いま人形と彼が繋がっているという話をしたばかりだった。万一彼が焼死体で発見されるなんてことがあったら、僕はもうお天道様の下を歩けない。
「じゃあルールのほうはどうだろう。名前の通り丑の刻に行わなければいけなかったり、途中で誰かに見られてはいけなかったりみたいな制限も、重要な要素だと思うけど、心当たりはない?」
たしかに、有名なオカルト的な儀式には、厳しい制限が設けられているものが多いように思える。そういった制限を課すことで、ある種の担保のようにして、成功を信じるのかも知れない。
自分で追い込んでおいて保険にするというのも、ずいぶん独りよがりな気がするが、そもそも呪いなのだから突っ込んでも仕方のないことか。
今一度、人形をよく見てみる。
「あれ、この人形、着物の向きが逆じゃない?」
部長に言われてハッとする。そういえば、正しい着付けは、左の襟が上に来る形だったはずだ。
自撮りの写真も確認するが、こちらは正しい着付けになっている。
これは一体……?
「そういえばこの姿見、蔵に似たようなデザインの家具があったような……」
「ちょっと、箱に入ってる状態のも見てみない?」
部長に言われて、人形を撮った写真を表示させる。
よく見ると、箱の底には、畳のように見える図形が描かれている。
今まで無意識に、この箱は人形を封じるための檻だと思っていた。鍵を開けられた檻に意味はないと、深く考えていなかった。
しかし、この箱こそが、獲物を誘い込むための、人形の”部屋“なのだとしたら……
「見えたかもしれないね、彼と人形の縁が」
何度か訪れたはずの部屋のドアが、今日は大きく見えた。一度目を瞑って、深呼吸する。
何度か繰り返したあと、インターフォンを押した。
軽い足音が近づいてきて、ドアが開く。
「よっ」
「……」
彼は無言だったが、身振りで部屋に上がるように促してきた。
床がきしむ音が響いて、静寂が肌を刺すようだ。
先に僕が口を開く。
「そういえばこの姿見、やっぱ蔵にあったやつなの?」
「ああ、引っ越すときにもらったんだ。どうせ使ってないからって」
これでひとつ仮説の裏付けをとることができた。とはいえ、まだ確信には至らない。
そのままたわいない話をするうちに、彼がしびれを切らしたように、話し出した。
「お前に何を言われても、俺はやめないからな」
「……やっぱバレてたか」
「人形、お前が持ってたよな」
メカクレ男の娘が詰め寄ってくる。目元は見えないが、鬼のような形相だろう。
彼に人形を渡した。
「やけにあっさりだな」
戸惑いつつもそれを受け取る。
人形自体は、今はそれほど重要じゃない。しかし、今の彼にはわからないだろう。
「不思議な気分なんだ。今じゃこっちが本当の俺のような気さえする」
彼の目は、ここではない遠くを見ているようだった。
「世界中が俺を肯定する。当たり前だ。なんたってメカクレ男の娘なんだからな」
ククッ、と肩を震わせる。
僕には、それがひどく自虐的な笑い方に見えた。
「確かに今のお前は生き生きしてるし、誰に迷惑をかけてもない。それを否定する権利はないかもしれないな」
僕はおもむろに傷んだ箱を取り出して、床に置く。
彼はいぶかし気にその様子を見ていたが、邪魔はしてこなかった。
「僕が今からやることは、お前にとって、とんでもない迷惑になるかもしれない。けど僕はやるぞ」
「……?何を言ってる」
「友達は、迷惑をかけあうものだから」
言い終わった瞬間、全体重をかけて、箱を踏み抜いた。
箱は見た目通りそうとう傷んでいて、あっさりと粉々になった。抵抗が少なすぎて、少しよろける。
「!?な、なんだ、体が……!」
彼が膝をつく。
箱を開けて異変が生じるまでラグがあったのに、ずっと引っかかっていた。
ここまで体格が変わったのに、姿見を見るまで気づかなかったというの妙だ。それなら、姿見を見ることがもう一つの条件だったのではないか?
あの箱は、この姿見に映る誰かの部屋を模していたのだ。
そして鏡をみた人間を、メカクレ男の娘という牢獄へ閉じ込める。
ドサッ、と鈍い音がして彼が倒れる。
まだ男の娘の体格なので、ベッドに運ぶのが楽で助かるな、なんてことを思いつつ、ふと窓の外を見ると、昨日の満月よりすこし欠けた、歪な月が浮かんでいた。
「……あれ、俺何をしてたんだっけ」
目覚めた彼は、記憶が混濁しているようだった。時間がたてば思い出すかもしれないが、いまは忘れているほうがいいだろう。
「僕のことはわかる?」
「知らないけど、なんかVtuberとか見てそう」
ベタなボケと(聞く人によっては)罵倒を同時に食らって、派手にズッコケそうになったが、床に木片が散らばっているのを思い出して踏みとどまる。
怪我はしたくないので、かわりにツッコんでやった。
「いや、お前の友達だよ!」