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シジュウ目前に社会福祉士を目指すわけ①

『その女、ジルバ』の池脇千鶴さんの身体ごとの演技に関心している。

私も直にシジュウを迎えるのだが、子どもこそ2人いて一応母親をやってはいるものの、本当に“一応”で、情けないくらい成長していない自分に向き合わされるたび、嘆くのを通り越し「子どもと違い、大人は年を重ねただけでは成長などしないのだ。成長曲線は横ばいに伸びていくだけなのだ」と、自分を受け入れ、あきらめに近い気持ちを抱いたりする。(まだ下降はしてないと信じたい…。)

それでも、生きてきた年月だけ積み上がる「経験」ってやつのおかげで、かつてよりは、要領よく社会に自分を活かすことができるようになった気がする。扱いにくい自分の扱い方を知り、“それなり”には、生きて行けるようになった。

だがしかし。

“それなり”から脱却することなく、気づけばシジュウ目前。収入は、20歳の時に新卒入社した会社の2年目の年収が一番よかった。今日までに、計画性なく転職を繰り返したりバイトで繋いだりしているせいで、ずっとあの時の年収を下回ったままだ。

このままいけば、ずっとこのまま。

私は、恐ろしくなった。

大人になればなるほど、実践が少ないわりに情報だけは仕入れまくっているから、現代の子どもの教育環境、子どもが大人になる頃の社会がどのような課題と希望を持っているのかは、ぼんやり見えている。そう、私の経験など、なんの参考にもならない今を、未来を、子どもたちは生きていく。というか、私の人生をなぞるような生き方なんて、してほしくない。してはいけない

このままの私のままで、子どもたちを満足に育てることができるのか。子どもたちに最適な環境を整えてあげることができるのか。そんな疑問が子どもの成長とともに膨らみ、あきらめてる場合ではなくなってきた。あきらめって、逃げてるのと一緒だと気づいたから。

私が思うに、親の役割は、ごはん・掃除・洗濯ではない。

「子どもが成長したいほうへ成長できるよう、最適な環境を整えること」

これに尽きるのではないかと思う。
私は、親になったことで、“それなり”からの脱却を真剣に考えずにはいられなくなった。

そこで、改めて、私は何がしたいのか、を考え直してみた。
私のこれまでの人生、一貫性がないように見られることが多いのだが、実は、ある「ただ一点」を目指して、あらゆる道を探りながら試行錯誤しているだけだったりするのだ。その“一点”とは何かを、的確な言葉にするのは、まだ難しい。

世の中の理不尽を減らしたい

本音で生きていきたい

誰にも遠慮することなく、自分の人生を堂々と生きていきたい

仮に文字にしてみると、例えばこんなことだったりもする。果たされて当然とも思える、当たり前すぎる願いだが、この当たり前が、奇跡に近いのが今の社会だと思う。私が今生きている場所からは、奇跡に思える。あなたが今いる場所で、これは当たり前であるだろうか。私の人生においてはもちろん、子どもたちの人生においても、これらの願いが、当たり前に叶う世の中であってほしい。そんな世の中に変えたいのだ。

思い起こせば、こんな感じの願いの種が降ってきたのは、中学2年生、14歳の時だった。社会に対する違和感とでもいうのだろうか。ぼんやり生き進んでる場合じゃないんじゃないかと思い始めたのだ。でも、その違和感にどこからアプローチしたらいいのか、ずっとわからなかった。“それなり”性分で努力を避けてきたとも言える。ただ興味関心が赴くままに経験を重ねて、気づけば25年近く経っているのがこないだまでの私だった。

そして、昨年の12月。やっと見つけたのだ。

社会福祉士になれば、“それなり”から脱却できる。
“ただ一点”に堂々と向かっていくことができる。

何がどうして、こうなったのかは、また後日、言葉にしてみたいと思う。


長い独白に、耳(目ですね)を傾けてくださって、
どうもありがとうございます。これからも、よろしくお願いします。



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