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「見えないからこそ、視える」患者様
医療従事者は、意外と、患者様一人一人覚えているものです。
それぞれ人の想いや考え方によって、より強い印象で覚えているケースと、うっすら覚えているケースと様々ではありますが・・・
私は元々、人のお名前を覚えるのが異常なほど苦手だし、適切な単語への変換も苦手なので、「場面」として風景や会話ごと覚えているタイプです。ですので、記録も大体会話式・・・
(方言そのまま記録するので、関東圏で勤務している時はよく読みにくいと言われてました)
今日は、先日ふと頭をよぎった患者様のお話。
とある田舎の薬局で勤務している頃に出会った90代の患者様。
背筋はまっすぐ伸び、いつもおしゃれで柔らかい雰囲気をもった女性の方で、いつも角にある座りにくい場所にあえて座られる方でした。
飲み薬は一切処方される気配はないほど健康体の方でしたが、視力がほぼ見えない状態です。ただ、それは特段彼女にとっての「不便」ではありません。
それは、本人が口で言わずとも彼女から出ている雰囲気でわかります。
薬局へ来られる理由は、目のゴロゴロ違和感。
長い事、それで受診されていました。
その日も、柔らかい色合いの服装で、春めいてきたからなのか淡い黄色いスカーフをされていました。
私が、いつものように目薬をお渡ししようと、そばに行って声をかけるや否や、その方は心配そうな顔でこちらを見て
「どうしたの?!そんなに疲れた顔して・・・」
言われた言葉にギクリとしながらも、笑顔を保ちながら
「あれ、ごめんなさい。疲れた顔しているつもりはなかったんですが・・・まだまだ私は修行が足りませんね。」
と返すと
「いいえ、おそらく目に見えるお顔は上手に笑えてる。
でも、心がとっても疲れた顔をしているみたい。
私は、肉体の顔が見えないから、心の顔がよく視えるのよ。」
「・・・・」
私は、即座に言葉を返せずに、苦笑いしかできませんでした。
当時、被災された方が集まっている町に仕事に来ていた私は、たくさんの出会いの中で自分の無力さ、幼さを何度も痛感して心が少し疲弊していたんだと思います。
ご飯の味がしないので食欲もわかず、夜なかなか寝つく事もできず、
唯一の週一回の休みさえ、強制もされてもいないのに焦燥感から仕事場に行っては何かをしていました。
答えの見えない迷路を歩いているような・・・そんな頃でした。
その方は、深く聞こうとはせずに
「色々と見えるものを見過ぎなのよ。
見ようとするから見えないの。
せっかく綺麗なものを見れる瞳を持っているのにもったいないわね・・・」
といたずらっ子のように笑って、
綺麗に装飾された杖を持って颯爽と薬局を後にされました。
いつもその方が薬局を去った後は、菜の花の香りがするのを不思議に思っていました。
言われた言葉を咀嚼するのに、
私にはしばらく頭を整理する時間が必要でしたが、彼女にお薬を渡す際にした会話は、確実に私の喉の詰まりをとってくれました。
大学で化学を学び、「物質的」な見方ばかりに捉われてきた私にとっては、体中の空気を抜かれたかのような感覚だったのを今でも覚えています。
今でも鮮明に思い出せる、素敵な女性です。
思えば、待合室でのやり取りを見ていても、
いつも言葉や何かに依存するのではなく、ご自身そのもので、人の心の重さをスッと取り去る方でした。
だからこそ、心がそこにない言葉は全く彼女には通じませんでした。
立派な言葉を並べるよりも、科学的に実証されたデータを示すよりも、
「その人」という生き方が誰かの心を軽くする。
例えば自然療法でも、心理学でも、これがこういうケースには良いと言われていることを知ることは今の時代はかなり容易なことですが、
実際にその実践を続けて、自分自身の中に落とし込んでいくことはなかなか難しいことです。
おそらく、その姿勢こそが
困った時、悩んだ時、不調の時・・・
本質的な「答え」につながっていくんだろうな
と。
今日も多くの出逢いに、ありがとうございます。