演劇的な映像 ー演劇記録の可能性、あるいは演劇の拡張の試案ー
(本論考は映像芸術論レポート課題として提出したものを加筆修正したものです。)
演劇作品の記録映像は、大抵観客席側に固定されたカメラにより撮影されている。変化があったとしても、映像がアップになるか、多少撮影の角度が変わる程度である。
撮影や編集の手間を考えると仕方のないことであるが、その映像は文法が複雑化した現代の映像作品と比較すると、まだまだ発展の余地があるように思う。
リュミエール兄弟の撮影した映像は、定点から人々の営みを写し取ったものだった。映像の歴史はそこから始まり、ジョルジュ・メリエスが『月世界旅行』によって革新をもたらす。カット割と物語が映像に持ち込まれ、映像によって物語を複製するという現代に繋がる。ただし、(この指摘によってメリエスの革新性は損なわれないことに留意しつつも)その撮影は舞台上を眺める観客の視点によって行われている。ドラマ映像が原点を演劇に置く証左であると同時に、画面が演者の身体の一部のみを切り取ったり、対象に向かう視線に角度を付けたりといったような現代の映像技術からはまだ幾段階か距離があるということでもある。
本論考では、起点を同にしながらも演劇と袂を分かち独自の歩みを進めた映像表現とは異なり、尚且つ演劇の単なる記録映像ではなく演劇を映像世界に発展させる映像表現の可能性について論じたい。
そもそも、演劇鑑賞という体験は観客席のある固定された一点からの視点により行われる。観客は自席から舞台上の任意の地点に目をやり、物語の展開に合わせて自由に視線を動かす。
その前提に立つと、次の二点に於いて既存の演劇記録映像は演劇の体験を損なっている。
第一に、カメラのレンズによって規定された視点から外れることができない点である。
映像表現の宿命であり、それが利点として作用することもあるが、演劇性の再現を念頭に置くと、鑑賞者から主体を奪う体験の阻害要素となる。パノラマ映像を撮影しておき、ヘッドマウントディスプレイで視点移動を可能にする、仮想現実型の劇場再現を行うことによってある程度観客に主体性を与えることはできるとは思われるが、もう一つ問題を挙げたい。
それは、二重にフレームが設定されることにより、強い客観性が鑑賞者に付与される点である。
演劇の鑑賞時には、まず舞台上、特に舞台の観客側の端にフレームが一つ設定される。通常、そのフレームを想定して舞台演出は行われる。
しかし、映像化されることにより、その視聴にはディスプレイやスクリーンといったメディアが必要となる。演出に想定されているフレームの更に手前にもう一つフレームが増設されているといえる。想定されたフレームを、更に別のフレームを通して見ることで、その場の外から覗いている感覚を与える。視点の自由が限られることも相俟って強い客観性を感じさせる。
この問題を乗り越え、演劇的な映像を実現する表現の可能性を次のように提案する。
一つ目は、映像の文法を用いて舞台上で複数のカメラを廻すことである。演者の視点から舞台を横に切り取り、台詞を受ける役の視界を再現する。
我々の視覚は本来連続的であり、位置が突然切り替わることはない。しかし、映像の文法に慣れきった現代人にとっては、撮影位置が切り替わっても映像が時間的に連続でさえあれば一続きの映像であると知覚される。
いずれかの役の視点を借りて演劇の舞台上を映した映像は、舞台の端にあるフレームを介さず、ただ鑑賞時にメディアのフレームのみを経て鑑賞者に認知され、鑑賞者は映画視聴時の没入感に近い主観的体験を得られるのではないだろうか。
二つ目は、演劇の文法を用いて、舞台上を脱して1台のカメラで長廻しの撮影を行うことである。
舞台の上という正面のみ一面の世界から、周囲全面を扱えるセットや現実社会に飛び出し、暗転を迎えるまで一度も途切れることなくカメラの前で役者たちが役を演じ続ける。またカメラワークも綿密に練られ、撮影地点や撮影角度、移動経路が吟味されている必要がある。
その細かなやり直しの効かない演技と撮影は、舞台上での演技と演出に対応する。
鑑賞する立場に立つと、その映像は他人のやり取りを間近で眺めているが、しかしその場に自身は存在しない、という奇妙な主観性が得られる。その場に眼があり、視界があり、近い距離で見えているのにその場の一員ではない。同じ空間に存在していて視線に主観性もあるのに、舞台上の出来事に対して完全な第三者であり、存在しないものとして扱われることこそが演劇の鑑賞体験である。オムニバス映画『パリところどころ』のうち、ジャン・ルーシュ『北駅』は特にその存在しない第三者としての主観性が強く表れている。
もちろん、この手法で撮影したところで、視線を主観的に動かせないという問題は残ったままとなる。しかし、絶対的に監督、あるいは演出者が見せたいと考える視線を提示し、鑑賞者にそれに従わせることは、利点としても働きうるのではないだろうか。
林卓行のまとめたマイケル・フリード『芸術と客体性』(1967)の中で述べられるミニマルアート批判を参照すると、鑑賞者が自由に視点を移動して見ることによって完成するといわれる作品には、鑑賞者が感得すべき「目的」が作品にない、作者以外の人間は「終わりのない」弛緩した時間に拘束されるハメになる、とある(※1)。
カメラの長廻しによる映像表現は、そのカメラワークの吟味により映視線の提示、より厳密に言うと視線の強制を行う。観る角度を固定化することは映像表現全般に言えることではあるが、吟味され洗練されたその在り方は、絵画の視線提示と一致する。フリードのいう「目的」が強く表れる。
フリードと演劇というと、ミニマルアート批判で用いた「演劇性」という言葉が連想されるが、この演劇的な映像によって、演劇的であり尚且つ「目的」の強く表れる作品が成立しうるのではないだろうか。
※1
http://www.art-it.asia/u/admin_columns/iN1BUDmu4XMzvceTgfr3/
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