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鬼滅の刃&伊勢神宮。
ちょっと前に、鬼滅の刃の最終巻まで読み終わって、ふと昨日思ったことのメモ。
※若干ネタバレです。
もちろん、いろんな現代的なテーマが含まれているからこれほど流行るのだろうけれど、私は、そのひとつを、伊勢神宮に象徴されているものに重ねてしまった。
それは、「永遠」。
キーワードとして「想い」と言う言葉がよく出てくる。
とても重要なシーンのひとつだろうと思うのだけれど、お館さまが、無惨に言った言葉に端的に描かれている。
「永遠というのは、人の想いだ。人の想いこそが永遠であり、不滅なんだよ。」
「この・・・人の想いと繋がりが君には理解できないだろうね 無惨。なぜなら君は・・・君たちは
君が死ねば、全ての鬼が滅ぶんだろう?」
物質的な、唯一のものを永遠にしようとすること、それはやはり、自然に反することなのだろう。
しかし、ここでは「想い」と表現されたそれは、非物質的なものであり、形を変えて、時間と空間を超えて行く。
それを物質的に、建築的に表現したものが、伊勢神宮、そんな記事を以前書いた。
歴史的な建築とは、ずっと残ってきて、「考え」を象徴しているから、日本にはずっとその考え方があったということだと思う。
特に建築史ではおきまりの、教科書的に、お手本にしてきた西洋文化〜それは古代ローマ・ギリシア文化を起源とするもの、それは唯一の物質的なものとしてある。
それが西洋文化だと言い切れるか?は置いといて、
伊勢と対照的なものではないだろうか。
パルテノン神殿は唯一、一つの、それだけのものである。壊れたら消える。だからボロボロになっても、保存しなくてはいけない。なんとか、延命しなくては。
けれど、伊勢神宮は、20年ごとに、なんども何度も壊して作り直している。その本体が伊勢神宮ではないから、伊勢神宮とは、「想い」そのものだと言えると思う。(もちろん、伊勢だけではなく、出雲大社にも式年遷宮はあるので例えの話。)
まあ、昨日、ふと、そんなことを考えた。
絶対的なものなんて存在しない世界の中で、永遠と不滅について考えるとき・・・・
変化そのものが永遠。
しかし。
これが、西洋と日本の違いだ!なんていう、乱暴にまとめた、短絡的なお話ではないのだと思う。
19世紀のフランスの詩人ランボーは、太陽と海のとけあうところに、永遠を見つけている。
それは、パルテノン神殿のそれではないなと思うのよ。
そうそう、犬夜叉・・・もついに見終わってしまって楽しみが減ったのだけど笑 「想い」という同じテーマが描かれていたんだなあ・・・。
これも余談だが、無惨にせよ、奈落にせよ、最大の敵、というのは、イケメンなのだなあ・・・。