三月始まる。北海道も春の気配・・・
今日からいよいよ三月だ。本格的なバックカントリーシーズン到来とも言える。
たまたま車でかかったユーミンの「春よ、来い」を聞いたらなんだかとても切ない気持ちになった。
冬が終わる時、春が始まる時、いつも切ない気持ちになる。
私にとってそれは、夏が終わる切なさとはちょっと違う。
夏が終わる切なさは、なんとなく、季節的なものというよりも、より「個人的な」感情、楽しかった夏が終わる、夏の思い出・・・みたいな
私にとって、春が来る切なさは、もっと自然に由来するもので、厳しい冬が緩んできて、ふと思いがけない優しさに触れて、涙が出るみたいな、そんな感じだ。
また、もう一つの感情もある。雪山愛好者としての、スキーヤーとしての、春到来の切なさ。
いつも思い出す、大学のスキー部(山岳部)の歌の歌詞は、ノリは昭和だけれど、スキーヤーにとっての春の切なさを歌っていると思う。
人みな花に 酔うときも
残雪恋いて 山に入り
涙を流す 山男
雪解(ゆきげ)の水に 春を知る
でも、北海道はまだここまではっきりした春は来ていない。
週末の雪景色は、美しかった。
猛吹雪の中リフトに乗り、ガスで視界が悪い山なのに、どこまでも美しい。
全部、グレーの世界。
今年は、もっと体力があったら、もっとパウダーが滑れていた。稀に見る当たり年だった。でも、土日と二日続けて滑る気力と体力がなかった。
そんな風に、自分の体力のなさをふと悔いることもあるけれど、十分、パウダーを滑ったと思う。(まだ過去形ではない)毎週のように新雪が積もったのだから。遅めの到着でも十分、滑れたのだ。
それなのに、もっと、滑りたいと思う欲。
欲は尽きない。
でも自分の体力も温存せねば、と、うんと若い時みたいに、後先考えずに精根尽き果てるまで滑るということがなくなった。
それで、いい。
それでいいんだ。
そう言い聞かせる。春の気配を感じて、もうパウダーが滑れなくなる季節だという残念感と焦り。しかしそれと同時に、体力限界まで頑張らなくていいという安堵感・・・
正直言ってしまうと・・・安堵感もあるのか・・・
それでもやっぱり、残雪恋いて・・・山に入り・・・・
涙を流す・・・
パウダーをいつも夢見ている。
昨日、patagoniaの新しいビデオ「Zの解析」というのを見た。
ある有名ガイドを巡る、バックカントリーの危険性など。
とても頷ける内容だったと同時に、何か、違和感も感じた。その違和感というのは、「自然」・・を、一人の人間が、理性と知識だけで、全て判断できるということはありえないのではないか、という点だった。もちろんそれはわかった上で・・・だし、ガイドでもない私には、わからない究極の状態かもしれないけれど、
山で起こることの全てを予知してパーフェクトに予防したりすることは不可能だと、単純に思う。
山だけではないけど
理性と知識が全てという近代以降のモダニズム。
そうそう、ルドルフ・シュタイナーは、その理性と知識=科学 というものの台頭を、アーリマンの台頭として、警告していたな、ということを脈絡もなく思い出した。
話が脱線。