ロマン的時間を取り戻す
随分前のこと。パリにしばらく暮らして、東京に帰ってきたとき、3人でシェアハウスをしていたんだけど、そこの管理人みたいな台湾人(中国人?)のお姉さん(おばちゃん?)が、ドカドカ家に入ってきて、私を見て、
「アンタ、ロマン的フンイキねえ〜」
と、言った。ロマン的フンイキは、何をさすのか分からないけど、もうその人が、家に勝手に上がってきて大声を出したり勝手に窓に張り紙したりするような大雑把過ぎる人だったので、なんだか意外な言葉だった。
そのずっと後にまたフランスに行ったり来たりの生活をしてた時、宮島に行ったら、お店のおばちゃんが、カメラを持ってた私に向かって、
「ノーカメラ!ノーカメラ!」
と。
いや・・・。日本人なんですけれども。。
そのころは何度かそういうことがあって、日本人に見られないことも、あった。
人は、自分がどう見られているのか、多かれ少なかれ気になる。私もそうだ。けれど、本当に人が自分をどう見ているかというのは自分ではわからないし、相手によっても違うし、また、同じ自分だと思っている自分は、常に変化していて、時と場所によって全然違ったりする。
さっきの記憶は、自分でも意外だった記憶。
けれど、その時期はある意味自分が一番自分らしかったときかもな、と今振り返って思う。それは、自分が知らない文化や時間に身体と心を馴染ませて生きていた時間。一番必死になって、なんだか何もかも投げ出していたような。それで自分を見失っているとさえ思っていたけど振り返れば逆の感じがするのだ。
だから、今が全然自分らしくないのかというとそうでもなくて、むしろ自分らしくないこともたくさんしていて、その違和感が、新しい自分というか、本当はこうしたかった自分だったのか、ちょっと新鮮というか。
うまくは書けないけど。
家を建てたりペットを飼ったり、何よりも、子供ができたことで自分が今までしてきたように自由気ままに”物理的に”動けなくなるのがずっと怖かったのかもしれない。それは、自分が変化したり、何かを変えたいとき、手っ取り早い方法として、”物理的な力”を使ってきたからだ。
けれど、本当は、変わろうと思えば何もしなくても変われるはずだった。そのことは頭でわかっているけれど、自分が何かに膠着していくのがなんとなく怖い、そういう感覚がずっとあるのかもしれない。
でも、猫が家に来たことで(まだたったの二日だけど)確実に、時間の流れが変わったように思う。
時間の流れ・・・
(ジャン・グルニエの「猫のムールー」を思いだす。)
ああそうだ、私が、前の職場で自分が失ったと思ったもの。それを失ってから、何も創造的なことを思いつかなくなった、アイデアが浮かばなくなった。
大学から課せられる、本質でもなく、意味もないタスクを日々こなすこと。その仕事のなすり合い。同じ学科のおじさんたちの圧力に負けて、パワハラのことばかりが頭を占めるようになった。愚痴しか言わなくなった。そんな自分が嫌になって。そんな精神状態で研究なんてできるわけもなかった。
そこから逃げ出したのだ。研究できる環境にいて研究できないことで自分を責めたり、するよりも、失ったと思った何かを取り戻すことの方が徐々に、重要になっていったのだ。そこにいたらもっと失い続けるという恐怖感。じゃなかったら、遠方から通ってでも辞めなかっただろう。
失っていたのは、もしかしたら私なりには、「ロマン的フンイキ」で、それは違う時間の流れだったのかもしれない。
ロマン的時間。必死に取り戻そうとしたのは。
皮肉なことに、それは取り戻そうと必死になるとどんどんこぼれ落ちてしまうのかもしれない。思いがけないふとした時に、それは、あるのかも。
猫を見ていると、そんなことを思い出した。
猫の過ごす時間の中にも、そんなロマン的時間があるのかもしれないなと。
子供と、猫の過ごす、永遠の時間。
と、ここまで書いて、思い出したのが、映画の中で見た字幕の、ランボーの詩「永遠」。有名な翻訳はどれもピンとこなかったけど、あの「永遠」の訳にはロマン的なものが感じられたな。今ちょっと映画の名前を失念してしまって、引用できないのが残念。
でも確か、こんな感じだった。
Elle est retrouvée, もう一度見つけた
Quoi? ― L'Éternité. 何を?永遠を。
C'est la mer allée Avec le soleil. それは、太陽に溶け合った海。
L'ÉTERNITÉ Arthur Rimbaud ランボー 「永遠」の一部
ロマン的・・・まさに、ロマン主義的な。それは今の世界のベースになっている機能主義的なものとは別のもの。これについてはまた今度。