たった一言に傷つき、たった一言に救われる。

今週から第二Qで新たな講義なども始まるわけですが。

大学には、昨今、授業評価アンケートなるものがある。

学生が、授業を評価するという仕組み。
これは私が学生の時には無かった。
今は、こういう世の中なので、アンフェアな仕打ちなども訴えやすい仕組みになっているということかな。

それは真摯に受け止めるべきフィードバックと、明らかな悪意によって書かれたコメントなど、様々出てくる。

少しだけ落ち着いてから見ようと思ったが、昨日見たところ・・・・

まあ、ほとんどは建設的な意見であり、意外にも、良いフィードバックなどもあった。

しかし80名くらいいる講義となると、数名は悪意により書かれたもの、野次に近いもの、などもある。

いくらか、そんなフィードバックを読んでやはり、ダメージを受けた。
一つは、
「もっとデザインのいろんな話が聞けると思ったが、ただの歴史の話だった」というようなもの。「ただの」というところに小さな悪意を感じる。

一晩寝た今ではそれはかなり客観的なものとして受け止められるが、ダメージはダメージである。

昨日はそのダメージがあったので、色々考えてしまい、授業の準備が思うように進まなかった。

今朝、旦那くんに、学生から、授業に対してこんなフィードバックがあったよー(彼は同業者:建築の構造設計をやっている)と、ぽろっと言うと、

あっさり
「それは、デザインがわかってない人が言うことだね。」

と揺るぎない一言。
こういうことに関して、彼は非常に冷静であり、強い。
構造設計者たる資質だと思う。

ははは・・・

ほんとにそうだ。

もちろん、私はそうであるからデザイン概論という授業の中で、デザイン史の話をするわけだが、自分でそう思っているのと、人に言われるのとでは、こうも違うのかと。

自分も、揺るぎなく、そう思っているはずなのだが。

私の師ならば、やはり、全くその揺らぎはないのだ。

笑って反論されて終わりである。あの強さにはいつも憧れた。

デザインをする上で、その歴史、デザイン理論を知っていると知っていないとでは、全く違ってくること、むしろそれは当然の知識である。
ましてや、建築となれば、知らないことは恥ずかしいことだ。(それは、建築家の名前と作品名を覚えている、ということではない)
当然の知識無くして、デザインなどできないし、どのような小さな仕事においても、一流にはなれない。(一部の天才は別かもしれないが、それはデザイナーというよりも、アーティストである。いや、アーティストであれど、基礎的な知識はあるだろう)

デザインがわかっていないからこそ、大学に来て学んでいるのであり。
もっともっと、その重要さをもう少し教えるべきだったのか?
その重要性が伝わっていなかったのか。

とはいえ、それはたった一名の(おそらく、授業をまともに受けていない)学生の一言ではあったが、それでも心に刺さるものだ。

楽しんでくれた学生は多々いたようだったので・・・

たった数回の講義が、知識として蓄積されるとは思わない。

面白いな、程度でいいのではないか。

ちなみに、当たり前と言えば、当たり前だが、成績の良い学生(レポートでそれなりに書けるとか)は、出席率も高い。対面教室に来るし、よく人の話を聞いている。時々、目が合う。頷いている。
勤勉であることだけが良いとは思わないが、批判するにせよ、理解しなければならない。
そういう学生の書いたレポートは、なるほどね、と、思う点が必ずある。整然としているなど。

ここは大学なので、講義を受けるのも、受けないのも、単位を撮るのも取らないのも、自由だと思う。
国立大学ではもっとドライだ。
そうではない場合、もう少し学生に関わっていかねばならない。

さて・・悩んでいる間もなく、次の授業始まる。準備準備・・・・・・




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