ワインを飲んで自ら“さよなら”を告げる毒親はいない
シャボン玉のオーロラを抜いて固めたようなグラスに、少なめに注がれるツヤツヤしたブドウ色。舌のはしっこに感じるツンとした酸っぱさが、あるかないか。圧倒されるような香り。吸い込むと、どんなものよりもまっさきに恍惚とさせてくれる不思議な液体。
それが私にとってワインだ。
でもときに紙コップで飲んでもいいし、瓶からラッパ飲みしてもいい。渋すぎたって、それはそれで臭い鼻が曲がりそうなチーズと併せたら最高のマリアージュになる。
と、いろいろ治療中なので久しくワインなんか飲んでいないので恋しくなる。けれども、ぐっと堪えるというよりは存在をなるべく思い出さないようにして、自分をなだめている日々。
ドラマ「恋なんて、本気でやってどうするの?」には典型的な毒親が登場している。斉藤由貴さん演じる、美しく、何もかもに依存してるダメな母親は完璧にある一種の毒親を見事に表現している。
毒親は精神科医の水島広子氏によると大きく分けて2タイプあるそうだ。人格そのものに問題がある真性毒親と自覚のない生まれつきの特性ゆえに毒親になっているタイプ。ここでは詳しく書かないので、気になった人はぜひ彼女の著書『「毒親」の正体』(新調新書)を手にとってみてください。
ドラマで描かれるのは、このまさに後者の毒親である。子どものことが大好きで過保護で過関心。周りから見たらあきらかに子どもは疲弊し、少しずつエネルギーが奪われているのに、それに気づけない。本人は一生懸命やっているつもりでも、子どもからするととても「しんどい」状況で、一昔前だとひとくくりに「しつけ」とされて行政の助けも介入できない。
近年、心理的な虐待にようやくスポットが当たるようになって、一見毒親でないのに子どもに不利益をもたらしている毒親たちが問題視されるようになったと感じる。
本人に悪気はないけけど子どもを追い詰めている事実は、子どもからすると真性毒親と何ら変わらないので、今以上に問題視されることを願うばかりだ。
さて、ドラマに登場する毒親はギャンブル依存症でお酒にも依存し、息子をネグレクトしていた過去もある。息子は優しくマザコンに育ったので母親を捨てることはできず、母親はそんな息子に近づく女の子たちに次々と嫌がらせをして追い払う。しかし、息子の恋人である主人公との関わりから気持ちに変化が生じ、大人しくかつていた依存症回復支援施設に戻っていく。それを決意し息子に伝える際、彼女はワインを口にする。
ドラマではしばしば、「まっすぐに生きると周りの不穏分子すら味方してくれるよ」と言いたげな展開になる。でもこれは、現実ではそんなにあることではない。
残念ながら毒親は変わらない。これは主人公自身がドラマの中で言い放っていたことではなかったか。
毒親となってしまう人は、親でなかった時代は「自己愛」が強い人だ。とにかく自分本位で自分のことが一番で、他人がどうであれ自分のことをどんな状況でも絶対に優先させる。自分が不快な気分にさせられたら、同じかそれ以上の不快さを相手に味あわせないと気がすまない人種である。彼らは「相手のことを思う」という気持ちがすっぽり抜けている。思いやりを見せても、その根底には必ず自分の利益がある。そういう人たちだ。
だからドラマの展開には疑問しかなかった。毒親が息子やその彼女のことを思い自分から身を引くなど、あり得ない。
では、あの母親は毒親ではなかったのではないかという別異の疑問が浮かぶが、それも間違いである。自分のことを優先し子どもを心理的、肉体的、性的に傷つける親は総じて毒親である。あの母親は毒親で間違いなく、その基本的な性格や特性が変わることは一生ない。
とはいえ、本人が「やばいな」と思って周りの人々の反応などを何となく長年の経験から感じとって、身の振り方を変えてみることはある。主張しないでおこうとか、少し関わりを控えようとか。あくまで本人がしたいからではなく、大好きな自分の身を守るために渋々していることではあるが、それを一種の成長とか変化とかとらえられることはある。
でも根本的なものは何ひとつ変わっていないので、ボロはでやすい。ようやく親が変わってくれたと思っても、裏切られることの繰り返しが待っている。
親だからといって関わらなければならないことはない。幸せになりたいと思うのなら、関係を断つか、今よりも会う頻度、関わる頻度を減らすことが一番である。
ドラマを見て、「毒親でも見捨てないの優しい!」「結局親子はうまくいくよね!」みたいな意見で溢れかえらないことを願うばかりだ。
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