好意の圧②

初めに

 告白という名のテロ攻撃への愚痴で終わった、前回の記事の続きである。
 攻撃で壊滅的被害を受けた「その時怖くて辛かった私」への慰労なので、誰かの行動の正否をジャッジするわけじゃないよ。
 

好意を受け入れられない私がおかしいのか

 職場の元同僚の男性から物理的心理的領域侵犯を受けて、平穏な日常も、冷静で強い自己像も、水面に映る景色が落ち葉ひとつで容易に掻き乱されるようにぐちゃぐちゃになった。
 苦しかったのは、当時の自分が「私がおかしいのでは」とぐるぐる悩んでいたこと。
 
 相手に悪気はないのに悪者扱いするなんて、自分の心が狭いんじゃないか。
 好意を受け取れないのは自分の心理課題なんじゃないか。
 自分が成熟できてない証拠なんじゃないか。
 これだから気難しいとか言われて、周りの人から避けられるんじゃないか。
 こんなんじゃ一生誰かとお互いを大切にしあうパートナーシップなんか結べず、孤独に生きていくしかないんじゃないか。
 相手に脅かされたような不安だけでなく、自身に向けた疑念の針も、自分を苛んでいた。

 ネットで調べても、「幼少期のトラウマ」「蛙化現象」「治せる」「よくする」「克服」そんな文字ばかり並んで(しかも自称心理学専門家たちがこぞってそう言う記事を書いてる)、ああこれは治さないといけない病気なのか、と思って苦しくなった。
 そればっかり考えている中でずっと自分をチクチクと攻撃して叱って、本当に辛かった。ああいう相手をいずれは受け入れることが成熟なのか、課題の先にそれがあるのかと考えるにつれ嫌悪感が増した。
 とうとうカウンセリングを受けることを検討し、その中で架空のカウンセラーとの応答を妄想した。

 2ヶ月くらい懊悩して、ようやく気づいた。

それをカウンセラーが言ってくれるのか?

 カウンセリングは、優しいことを言ってもらいその場かぎりの小さな満足を得るものではない。カウンセラーと対話する中で、自分の課題に自分が気づいて向き合っていく作業だ。
 悩み続けていた自分がカウンセリングを受けたとして、何かいいことがあるだろうか?
 「その悩みはあっていいんだよ、怖い思いしたよね」って言ってほしいんじゃないか。
 そしてそれを自分に言えるのは、自分しかいない。自分の代わりに誰かが言ってくれるものじゃない。

 それで、嫌なものは嫌な自分にやっと気づくことができた。
 今まであんなに近くで必死に声を上げてたのに、蔑ろにしてて本当にごめん。自分のSOSを押し退けて、何をストーカー男に礼節示そうとしてたんだろう。
 平気で人の境界線を踏み抜いてくる男など、受け入れようと努力する必要なんか全くなかった。
 そして今後は、自分の境界線を(相手のためにも)意識してきちんと引く、自分の土地管理をしっかりやるべきなのだ。

 

ひと段落

 そう思ってからは、人に相談できるようになった。
 「勘違いじゃないの」「自意識過剰じゃないの」「相手も好きだっただけなのにかわいそう」そんなコメントを心のどこかで恐れて相談できなかったのだと思う。だけどそんな心無い言葉を投げつけていたのは自分自身だったと言うことだ。
 友達は「怖かったね、それは受け入れなくていいと思う」と親身になってくれた。

発見

 これを機に、心の境界線、バウンダリー、自分に許可を出すと言うこと、自分の嫌いや好きをまずは自分が受け入れること、ようやく意識するようになった。
 昔、こっちから境界線を踏み抜いてしまい拗れてしまった人間関係も思い出し、反省もしている。
 昔好きだった相手に勇気を出して連絡して、3日おきくらいに返信があるだけで大喜びしていた。相手はさぞ困惑し、メールの返信を考えるのに体力や思考力や時間を割き、その時できるだけの対応をしてくれたのだろう。
 私は「好きな相手がいるだけでこんなに幸せな時間を過ごせるんだ」と超絶舞い上がっていた。本当に、痛々しい。
 「その時の私」の感情も、もちろん私のものであり、否定できるものではない。ただ、痛々しかったね……、相手に立て続けに連絡しなかったのは偉かったね、としか今はコメントできない。

 自己中心的な”好き”に舞い上がる過去の自分に対しても、温かい目を向けられるようになった時、自分も相手の好意をすんなり受け入れられるようになるのだろうか。
 まだわからない。

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