嫌いな相手に怒らなくてもいい理由
看板のない境界線
他人の課題に踏み込まないようにする前に、境界線の見極めが難しい時がある。疲れてる時や追い込まれている時、やることなさすぎて罪悪感で落ち着かない時。それに、相手に苛立ってる時。
どうしても共感できない優しくできない相手とやりとりしなきゃいけない時、自分の価値観と真逆な人に大人の対応をしなきゃいけない時、どうしたら良いんだろう。
これはどうなの、あれはどうなのと自問自答してるけど「その時にそう思った私」に対する考察だから、他人の行動の正否のジャッジじゃないよ。
とある人から境界を踏み抜かれてすごく苦しい思いをしてる時期に、自分と他人の心の境界線という意味でのバウンダリーという言葉を知った。相手から踏み抜かれて不快だったし、過去の自分が他人のバウンダリーを侵食して拗れたことも思い出した。
自他境界が曖昧でやらかしてきた自覚はそもそもあった。相手にも辛い思いをさせちゃったのがやりきれない。だから人のバウンダリーにむやみに入らないように、してたつもりだったけど、そもそも自分の境界もはっきりしてない状態でどこからが相手側か見極めるのは無理な話だった。
自分と他人の課題の分離
バウンダリーを大事にしようと思い始めた出来事はそれなりに辛く大きなものだから、それは別の機会にまとめる。
今日は、境界線に気をつけててもいつの間にか人のところに入ろうとしちゃたから、反省も込めて振り返る。
最近、オランダの某海獣幼稚園のライブ配信を見てたら、画面の端に不審な動きをする人が映り込んだ。立ち入り禁止の柵に近寄って、動画撮影してる様子だった。もちろん驚いたし、建物や動物に何か危険があったらどうしよう、とは真っ先に思ったよ。
それと同時に、チャット欄で「スタッフにすぐ連絡して!」「○○さん(コメ欄でギャラリーにフレンドリーにしてくれる現地のスタッフ)に呼びかけて来てもらって!」って騒ぎ出した(ごめんね)一部のコメントにギョッとした。
あ、コメント欄ってたまに公式からアナウンスあるから、開けたり閉じたりしてる。嫌なら見なければ、っていう方は自分がそうしたら良いんじゃないかな。
自分達は、現場の人たちの仕事や海獣の赤ちゃんの様子を、狭い狭いモニター越しに覗かせてもらってるギャラリーに過ぎない。現地の様子とかボランティアスタッフの生活だとか仕事とか、ほぼ知らないでモニターの向こうから誰かを動かそうとするとか、迷惑傲慢にも程があるだろ、と。
不審者の意図も分からないし、施設に必要な安全管理はスタッフの仕事だし、だいたい自分だったら勤務時間終わっても、善意の観衆にどうしろこうしろ指示されたらすごい迷惑だろうなって思った。善意からってわかってるし、雰囲気悪くできないから余計に悪質だなって。
万が一何かあったとしても、それはその施設のストーリーであって、事件が起こってもないのにギャラリー側の不安、ただならぬ様子で高揚した群衆の興奮で、リアルな現場をコントロールしようとするのって、自覚ない分たち悪いなって、その時は強く思った。
結果スタッフの一人が時間外に呼び出されちゃって、何もないよ大丈夫だよ、と観衆を宥めるコメントまでするハメになって、息巻いてたギャラリーの一人が「私がコメントしました!Twitterにも書いたよ!施設にも連絡した!」と、はしゃいで(ごめんね)るのを見てうんざりして、もうここ来るまいと思った。
その時は強くそう思った。
放っておけない自分
結局それだって、施設とギャラリーの間の問題であって、私の課題じゃないんだよね。それが煩わしければ配信側がコメ欄閉じればいいし、どれが正解とかないし。
なぜこんなふうに自分が感じたんだろうと後から不思議になった。
例えば道端で突然人が倒れたら「それは相手の課題」とか言ってないでできることをしなきゃと思う。立ち去る人が悪いことはないけど、少なくとも何かしようとする人たちを怖いとか気持ち悪いとは思わない。
誰かの後ろから誰かが危険物を振りかぶってたり、明らかに盗撮されてそうな場合。動けるか分からないけど、これも何かしなきゃと思う側に共感できる。
モニター越しでも、明らかに事件が起きてたり灯油ぽいもの撒いてたりする人がいれば、通報するのも「それはそうだよね」って思える気がする。
じゃあなんであの場面では、「働きかけ組」にあんな嫌悪感を感じたんだろうか。
その前から感じていたモヤモヤが一気に顕在化したのだろうと考えてる。
自分の課題だった
海外のライブ配信のコメント欄に、日本人が殺到して、日本語でずっと会話してる、ってこと自体見ててハラハラしてた。自然発生的に造語とか独特の言い回しが出てくるのも、初めは面白かった。けど最初からそれを狙ってるような、わざとらしい盛り上がりが目につき始めてからは率直に言って恥ずかしくて見てられなくなった。
現場の当事者でもなんでもない、コメント欄の常連が幅を利かせたり、知り合い同士で関係ない会話したり、つまらないギャグみたいなのを日本語で繰り返したりしてるのを見て、幼稚だなあ寒いなあと。
コメント欄を日本人が占拠してなかったら、常連とか変な独特の言い回しとか流行ってなかったら、みんな英語でやりとりしてる中で起こったことだったら、元のネガティブな感情がなかったら、こんなにしらけた気分にはならなかったんじゃないか。
ああ、誰かしら積極的に動いてくれてありがとう、自分にできない思い切ったことをしてくれてよかったな、そのくらいで寧ろライブ配信の美談として記憶に残ったんじゃないか。
だから、お節介な出しゃばりに自分が不快な思いをさせられたんじゃなくて、自分の価値観とかコンディションがそうだった、っていう話だった。
嫌いな相手には優しくしなくていいし怒らなくてもいい
怒るって疲れるしなぜか自分が放った攻撃を最終的には自分がくらうことになる。わかってるんだけど、「怒りをコントロールしなきゃ」っていう姿勢で頑張っているうちは、冷静に対処なんて無理だった。
仮にその場ではソツなく振る舞えてもストレスが溜まってどこかで爆発して、結局自分にも周りにもいいことなかった。
でも今日ふと気づいた。
来月にはこの感覚を忘れて、また怒ってるかもしれないけど。
自分から見てどうしようもない人って居るものだけど、自分に危害がないならほっといていいんだなって、わかってはいたつもりだけど実感した。
自分が損するわけでもないのにそういう相手にイラつく時って、自分にとって正しくない相手の行動に「こうした方が良いのに、そうしない、もどかしい」ってこだわっちゃってる時。
少なくとも私はそう。
相手が正しくできるよう働きかけるなんて、家族か恋人の距離感だった。
バウンダリーを自分から侵害しに行って勝手に怒ってるんだから、相手にも良い迷惑だよね。
相手も家族も、困ってるけど何か良くしようなんて思ってない時に、求められてもいない説教をするなんて鬱陶しい。
大体、嫌いな相手のために一歩先を読んで世話を焼こうとして、相手の責任を取らないといけない距離に自分から無償で入ろうとするなんて物好きにも程がある。
嫌いな相手にこっちからヤキモキしてる時は、知らず知らずのうちに相手に無償奉仕しようとしてる。
それで給料が出るのでもないかぎり、嫌いな相手に心を砕くことないなって思った。
もちろん、自分が傷つけられたり攻撃されたりしたら、考えざるを得ないよ、あくまで自分のため。