メエルシュトレエムを生き延びる
予定の波に呑まれる
年末にかけての予定がぎちぎちになってきた。
丸一日何もないと言う日が無くなってしまった。
それが当たり前とういうパワフルな人には無縁の悩みなのだろうが、予定が空白の1日を至福に感じる自分にとっては脅威のスケジュールである。
各方面からの誘いや情報提供をチャンスと捉えてブックしていたらいつの間にかぎちぎちになってた。ちょっとした買い物を繰り返していたらいつの間にか金欠気味になるやつの逆。本当、逆ならいいのに。
予定を入れた時の私はきっと、近い未来の私が喜ぶだろうと思って誘いを片っ端からOKしていた。将来の自分の気持ちと体力のゆとりを多く見積りすぎた故の失敗である。今の自分にとって無理なことを、数ヶ月先の自分が喜ぶはずないのにね。
以下は、この年末を乗り切るための未来の自分との作戦会議にすぎない。
私のキャパシティの中で自問自答しているだけなので、「誘う人誘われる人論争」は問題にしていない。どっち側の人も色々あると思うから、これを読んで「自分が誰かの負担になっちゃってるかも……」とか不安になる必要は全くないよ。
一番の目的は、自分のキャパシティを自覚して、潰れないように乗り切ること。
予定が入ること自体はありがたい
飲み会や交流会、研修会のお誘いはとてもありがたいものである。
だから大体の場合、自分に直接インフォメーションがあると参加前提で話を進めたりする。
流石にダブルブッキングはないようにしているものの、休日に予定が並んでくると先の予定でもソワソワしてくる。
朝ゆっくりしたいから夕方にしても、夜のんびりできずソワソワ、朝に予定を入れても勤務日並みの早起きをすることにソワソワ。
やってやれないことはない、けど、ウィークデイの前日に疲れ切っている自分が目に浮かぶ。
楽しい、ためになるだろうと思って入れた予定なのに、疎ましく感じてしまう。自分でも理不尽だし勿体無いと思う。これが一番辛い。
予定が詰まりすぎて忙しいと良くないこと、まず疲れる。そうすると日常生活がままならなくなる。買い出し、部屋の掃除、整理整頓、気持ちのリラックス、楽しいことを楽しいと思う気持ち、身近な人たちと穏やかに会話して平穏な日々を暮らしていくこと、何より忘れてはいけないのが、トラブルなく仕事をしていくこと。これができなくなるってかなりの一大事である。
こういう無理を押し切って予定をこなすといいことがあるか?
多分それなりに達成感はある。懐かしい友達と会ったり、知らない人たちと交流して新しい価値観に刺激を受けたり。移動とか街とか会場とか、直接訪れることでしか得られない情報も、無意識のうちに脳に刻み込まれて、きっと今後の人生の糧になるのだろう。
対策を考える
メエルシュトレエムというのはエドガー・アラン・ポーの小説タイトルから拝借した。鳴門の大渦みたいなものらしい。
11月が始まると既に大渦の中と言う状態になりそうなので、
・大渦に飛び込むのか
・回避する方法を考えるのか
・飛び込んだらどうやって耐えるのか
・耐えるより脱出経路が大事なのか
・回避しやすい渦
今のうちに考えたいと思う。
大渦に飛び込むのか
予定を頑張って全部こなして得られるものはなんだろう。
第一に経験である。それに、次も声をかけてもらえるだろうと言う打算。
何より相手の心象だろう。
特に三番目なんかは実際どうだかわからない。断ったってよほど不誠実なやり方じゃない限り、そんなに気にされないとも思う。自分だってそうだ。
でも誘いに乗って一緒に何かに参加したり共有したりできれば当然嬉しい。自分だってそう。
あと、やりきったっていう自信かなあ。これについては要注意で、一度はギリギリでもできたという実績が、今後も懲りずに同じ失敗を繰り返すことに繋がりかねない。
このままスケジュール表通りに11月に突っ込んで行って得られるものって、こんな感じ。
大渦回避の方法
遁走して仕舞えば全て白紙なんだけど、それでは本末転倒なので穏便な方法を考える。
今後も併せて、一番建設的な方法だろう。頭ではわかってるんだけどね。
自分がワクワクする、心から楽しみだと思えるもの以外キャンセルする。と言うのが一部ではおすすめされている。それができれば一番いいのだけど、何かが自分の中で引っかかる。第一その選択方法でいくと、正直ほぼ何も残らない。率直に言って10月末のこじんまりした飲み会以外、気象条件や世界情勢で中止になるならそれが一番嬉しい。
元も子もないけど、こうして文章にしてみると自分の気持ちの在りどころがよくわかった。自覚していたようで、明確には自認していなかった本心である。
それはそれとして、予定の数自体は減らしたい。
とりあえず、「もうみんな知ってると思うけど○○日の講演会後に懇親会やるから来てね」という何もかも超一方的なのはパスする。その講演会も個人的になんのアナウンスもされてないし、そこは無理するところじゃないのは自分でもわかる。
知り合いに情報提供されたけど「興味ある」くらいの返事に留めておいたやつもパス。相手の意向とすれ違わないように確認は必要だけど、この人の誘いに全部乗ってたら身が持たないし。この人は有給や仕事の一環で参加するものに、私は自分の休日返上で行っているから、これも自分のペースも大事にしていいと思うんだ。
知人の発表会の誘い、これは話の流れでチケットを確保してくれるようなので、こちらもコンディションを整えて芸術を楽しもうと思う。こういうのは開演閉演時間も決まっているのが心理的負担が少ないし。
ズームのやつは、家という安心空間で参加できるし、万が一の場合離脱経路がたくさんあるからまあいいかな。
一番悩ましいのは内輪の同窓会的なやつ。予定を組んでもらえたのはありがたい、声をかけてくれたのも嬉しい、みんななかなか集まれない、でも正直、現地に赴いてまで飲んだり話したりしたいとは全く思わない。
たぶん、断っても大丈夫なんだよね。自分が一番遠くから参加するし、ゆっくりできるわけでもないから遠くまで行って蜻蛉返りすることになるし。そんなにみんなに報告することもしたいこともないし、愚痴もたまってないし。もっと昔だったら、宿泊とか移動、ちょっとした地方都市での買い物など小旅行として楽しめてたと思う。でも今はそんなに買い物欲もないし、移動も人が多くて消耗するし、ちょっとの滞在に行って帰っての交通費もバカにならないな、と失うものばかり考えてしまう。LINEグループのやりとりを見ても、みんな仕事の愚痴を勢いよくやりとりしながらも楽しそうだ。私が話したいこともないし、向こうから聞きたいこともあんまりないんだな。こんな状況で無理に参加して、内心では嫌だとか思いながら参加されて、向こうだってあんまり幸せじゃないよね。
ここまでしてなんで無理に予定を詰め込むのか?否、キャンセルするのにうだうだ戸惑っているのか。
これも自分のエゴで、「よく見られたい」というのが大きいのだろう。
相手からというよりは、自己評価の問題で。
もしかしたら無意識で、相手ことを「誘いを断ったら嫌ってくる」ような狭量な人間だと勝手に評価してしまっているのかもしれない。
遊びの誘いならともかく、研修会や講習会、ミーティングの内容が、社会的な問題、センシティブな問題に焦点が当たったものばかりなので…… それを断る自分は薄情で身勝手だ、と自分で勝手にジャッジしてしまっているのかもしれない。心身を削って世の中の問題に立ち向かうべき、という妙な正義感とも言えるかも。
これは謙虚でもなんでもなく、自分に課した厳しさを他人にも押し付けてしまう怖さがあるということ。なぜなら自分でその課題に納得していないから。
自分のキャパシティを超えて無理をすると、この辺りのエゴが隠しきれなくなる可能性が高い。
メエルシュトレエムを耐え切れるか
仮に現時点で決まっている予定に頑張って参加すると何が起こるのか。
経験というか、経験をしたという自己満足度は上がるかもしれない。
でも自分の性格から、きっと疲労感の方が強いだろう。
特に外出・遠出系のイベントで失うものは……
・時間
・体力
・金
・心のゆとり
自己中心的だと罵られようが大事なものは大事なのである。
猫との時間、寝る時間、ぼんやりする時間、これは何ものにも代え難い。こういう時間は私にとって体力と精神力を回復するのに絶対必要で、足りない日が続くと生活が荒んで浪費が増え、人にも優しくできなくなり、毎晩が自己嫌悪と反省会の日々になるだろう。
人間、超超超高速移動でもしていない限りは時間は無情に流れていくので、予定があるかぎり時間問題はどうにもならない。
予定のために仕事を休んで体力を維持しようにも、収入を減らして支出はキープなんて本末転倒だ。
きっと元々苦手な部屋の掃除や整理整頓も適当になり、荒れた部屋の中でイライラが募っていくんだろうなあ……
滅多に見られない舞台が他県で開催される、みたいなことなら移動費がとか体力がとか言わずに楽しめる。単純に、自分が他人にあまり興味がなく集団行動が苦手で、体力や金を人のために使うのに抵抗を覚えるケチな人間なんだろう。
あんまり認めたくないことだけど、もう自分にないものを身につけるよりは既に持ってるものでやり抜くしかないところまで来てしまったのだから、どうしようもない。今から価値観をガラッとかえて童話の主人公のように清く生きるなど無理なのだ。
クリスマスキャロルのスクルージのように孤独な末路を見せられても、体力・金・時間、ないものはない。
さらにさもしいことを言えば、他人のためには自分なりに既に時間体力金を使っているのだ。こうこんなに使ったのに、という被害者感情が消化不良のまま残っている。
一番辛かったのは結婚式ラッシュだった。交通費、ドレス代、美容室代、ご祝儀など金銭的負担以上に、大勢の人の中で長時間滞在する、場の雰囲気を壊さないよう機嫌良くしている、出席者の婚約指輪マウント合戦を笑顔で聞く、悪気ない「あなたはいつ結婚するの」責めに無難に耐え切る、ブーケトスで大勢の前でそれなりに前のめりなパフォーマンスをする、何より仕事の疲れを回復したい休日を長時間の他人のセレモニーに捧げる……
どだい無理な話だった。自分に全く向いていない行事をあれだけたくさん乗り切って、他人の目を気にして身の丈に合わないはしゃぎかたをして、ろくに使わないドレスに大金かけて(今思えばレンタルでよかった)、華やかで明るい大勢がガヤガヤしている場という、一番生命力を削られる場に何度も身を置いてきたのだ。その、疲れとか惨めさとか虚しさとか、認めたくないけどやっかみとか、それらのドロドロが昇華されないまま蟠っているのに、さらに皆んなのために何かを差し出そうなんて。
これは未来の自分からの悲鳴である。
ここまで自分を卑下してまで魂の叫びを聞かせてくれたのだから、このまま大渦に突っ込んだ未来はもう見えている。
きっと潰れる。
脱出経路を考える
参加者が多かったり、支払いが当日だったり、研修会で参加しなくても困るのは自分だけ、というものは、当日の気持ちで参加を決めることにする。
遠方の友達との会食、一番負担が大きいけど、前章でだいぶ愚痴ってしまったけど…… 道中の景色とか、久しぶりにオシャレをするとか、何かモチベーションを上げられるもので楽しむとか。
あと、幹事には、体調とかスケジュールの関係でちょっとアップアップなんだけど、行きたい気持ちはあるしありがとう、となるべく素敵な言葉で事前に状況をお伝えしておくとか。
まず何より、これほどキャパオーバーしそうで戦々恐々としている自分を自覚するのがだいじかな。
それと、無為に過ごしてもなんの罪悪感も湧かず、ぼーっと時間を消費できる自分の能力をもっと認めること。
あと、どんなに楽しみだねーと言い合っていても、相手も少なからず色々な負担や葛藤を乗り越えた結果予定を合わせてくれたのであろうことを忘れないこと。
とりあえず、これらを全て乗り切って新年を待つ瞬間、猫とゆったりしながら考えることは、安堵と感謝でありたい。
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