
ニートの昔話~絵を描くことについて~
こんにちは、ニーフリのニートこと守田です。もうほぼほぼ書くことがないのとうんこがでないのでやめようかと思ったのですが、占いに文章を書くとよいって書いてあったので書こうと思います。
このように、ニーフリの四コマは私が描いているのですが、そもそも私が絵を描き始めた最初の最初を思い起こしてみようと思います。
さて、最早どこが最初なのかも分からないのですが、とりあえず物心ついた時から絵は描いていたように思います。と言いますのも、母が絵を描くことが好きだったのも一つの要因ではないかと思いますが、それでも母がたくさん絵を描いてくれたわけではなく、私は息をするかの如く筆を握ったのではなかったかと思うのです。
記憶にあるのは、狂ったように人魚姫の絵を描いていたことです。そのころ…何歳だろうか…5歳くらいだろうか…の時に私の中に人魚姫ブームが巻き起こっていたのです。なんとまぁ、私の今の「人じゃない何かが大好き」性癖はすでにこのとき確立されていたのかもしれません。
それまで私は、園児にありがちな、頭が平らな平凡なイラストを描いていました。ですが、幼稚園の同じクラスに、なんと、頭が平らではない、5歳児が描いたとは思えないくらいの等身の高い美少女というやつの絵を描く子が現れたのです。私はものすごい衝撃を覚えたと同時に、どうしたらあんな大人みたいな絵が描けるものかと嫉妬すらしました。
その時初めて、他人に絵を描いてもらう喜びを知りました。ええ、嫉妬と羨望のあまり、声を掛けたのです。自分に正直だったので、その絵が欲しかったうえに、どうしたら描けるのか目の前で描いてほしかったのです。上手だね、を第一声に自分の落書き帳を差出しながら、私にも描いてほしいな、となんともすごいコミュニケーション能力を発揮したのです。そのこは嫌な顔を一つもしないで、いいよ!と私の落書き帳に同じようにさらさらとその美少女を描いてくれました。その時の喜びといったら、言葉にならなかったと思います。何度もお礼をいいつつ、私の目はその子の手元から離れませんでした。うまい、うますぎる…!子供ながらに、この子が描いたんじゃないのではないかという疑念すら抱いていたので、目の前で描いてくれたので、私はもうハトが豆鉄砲喰らったみたいにびっくりして凝視していました。天才っているんやな…。私はその時、紛れもなくその子に屈服したのを覚えています。
憧れと嫉妬は紙一重、顔には出しませんが、私は自分の絵がとても下手に思えて思えて仕方がありませんでした。多分、5歳にしたら、うまく描けていた方だと自負しているのですが、自分の理想には遠く及ばないのもまた事実です。その日から、その子の描いてくれた絵を真似て、ひたすらに絵を描き始めたのです。
その時、ふと、自分の手元にあった人魚姫の本、ちょっとアニメチックに描かれてある小さめの絵本をみました。そう、こんな感じに私も描きたいんだよ!と。そこからはどうしたらこのように描けるのか、絵本の模写、描いてもらった絵の模写、模写、模写、模写の日々です。理想が高すぎて、全然満足に描けませんでした。それでも毎日、楽しかったのは覚えています。
それだけ描いたのですから、私は人より、ちょっとばかし絵を描くことがうまくなっていました。
そんなある日、幼稚園で将来の夢を絵に描きましょう、という時間がありました。私はその時、漫画家という言葉も、イラストレーターという言葉も知りませんでした。絵をかく人のことを何というのだろう、と頭をひねっておりました。
すると、先生は私が真っ白な画用紙を前に首をひねっているものですから、将来の夢が決まってない可哀想な子だと勘違いをし、私は最悪な絵を描くこととなりました。
「守田ちゃんは、お嫁さんがいいとおもう」などとわけわからない、私の夢には一文字もはいって来ないような夢を提案をし始めたのです。さらに追い打ちのように「○○くん(同じクラスの男の子)のお嫁さんが似合うな~」とさらに被害を拡大されました。当時から恋、愛、誰が誰を好き、などという言葉に嫌悪感を抱き、さらにはそういう話は汚い、恥ずかしい話だと心が重く苦しくなってしまっていたこの私に、なんかわけわからないラブラブな絵を描けと言うのです。おまけに皆の前でそんなことを言われては、まるで私が○○くんの事が好きみたいではないか!と怒りすら覚えたというのに、大人を前にすると一言もしゃべれなくなってしまう私は何も言えず、白い画用紙を見つめたままで、無言の抵抗は虚しく、先生は無理矢理私にそれを描かせたのです。よくわかりませんが、先生が勝手に園児で妄想してたのかなとか、今なら思うのですが、押し付けてほしくなかったです。でも、私には大人の意見に反論する、逆らうということは怖い事で、素直に従わないといけない、と給食弁当の件(ニートの昔話~食事について~参照)で痛い程知っていたので素直にそれを描いたのです。
ちっとも楽しくなかったのですが、絵の中の私じゃない誰かは笑っていて、真っ白いドレスを着て、ピンクの背景の中を知らない男と手を繋いで歩いていました。先生の願望ですから、褒められました。でも自分の絵を褒められてもちっとも嬉しくなくて、私は泣きそうでした。とても苦しかったのです。本当は絵の中の女の人は私ではなかったですし、自分をモデルにはとても描けなかったのです。それから私は私の願望の為だけに納得できる絵を描けるようになる為に毎日絵を描き続けたのです。もうあんな思いはたくさんで、私の夢を私は自分で強く思い描けるだけの力が欲しかったのだと思います。
そうして私は、小学校に上がり、写生大会という生きがいを見つけました。年に一回、その日だけは本当に楽しく、その日だけ、自分がちゃんと力を発揮できる日だったのです。
小学校一年から三年まで、毎年のように賞をもらっていました。少なからず、私にはそれが本当に誇りだったし、嬉しかったのです。自分で考えて、全力で描いて、それが評価される、それが当たり前に嬉しかったです。一生懸命描いた、自分の納得いく一枚になった、それが評価された、そこが私には重要だったように思います。頭もよくない、運動もできない、そんな私が唯一、皆よりすこし出来るんだと自覚していたのが図画工作と写生大会だったのです。
それでも四年生の時に、私の自信はいともたやすくへし折られたのです。その年の写生大会で、私は賞を取ることができませんでした。それでも私は、きちんと評価しての結果ならと、別にいいや、と自分の中で納得していたのです。私は全力で描いたけれど、もっとうまい人がいた、たったそれだけのことだったのだと、残念だけれど、仕方のない事で、来年また頑張ろうと、そう前向きだったのを覚えています。
それなのに、写生大会の批評会みたいなのがクラスで開かれました。内容は、賞を取った絵のどこがいい、とか、賞をとれなかった子のどこがいけなかったのかという話だったかと思います。今後の参考になるし私は真面目に話を聞いておりました。すると賞を取った絵と、そうじゃない絵、その二つの絵の他が出てきたのです。
紛れもなく、私の絵でした。
一瞬意味が分からず、私の心臓はヒヤッと冷えて、それでも先生の放った言葉に頭が理解を示さなかったのも覚えているのです。
その時の写生大会の題材は「楽器を弾く友達」。わたしはアコーディオンをひく子をモデルに描いたのですが、確かに私のその絵でした。なぜ、その絵に賞をあげられなかったのか、と先生が言ったのです。
「この絵はね、うますぎたんです。うますぎたので賞をあげられませんでした。」
先生が何を言ったか、ちゃんと耳は聞いていたのに、全然意味が入ってこなかったです。私はいつからこんなに人の話も理解できないような人間になってしまったのかと、自分を疑いました。「もっと子供らしく、へたなところも絵にはいるんですよ」そんな言葉が続いたように記憶しています。一生懸命、上手く描けたら嬉しい、楽しいと描いた結果がこれなのです。「上手だと、先生は認めているのに、評価である賞はくれない。」その事実に私は頭がぐわんぐわんとして、座っているのか立っているのか分からなくなりました。上手くても、へたでも、評価されない、と。
こうして私は、うますぎてもいけない、と、下手くそでも誰も見てくれない(経験則)という地獄に堕とされてしまったのです。
もうどうしていいかわからず、本当につらかった。描いては捨て、描いては捨て、それでも描くのをやめたら、きっと自分は後悔するのだと。
結局私の出した答えは、描くのはやめない、でももう、大人の評価に期待しない、でした。そんなものこそ意味がなかったのだと思うようになりました。それからは自分の求める最高を目指して、今も描き続ける日々です。
次第に漫画家という単語を私は知り、自然とそうなりたいと願うようになったのです。いまだ叶わない私のあの時描くことが出来なかった夢は、きっと今ならきちんと描いて、私はこれになりたいんだよって言えるのだと思います。たとへそこへ到達できなくても、私は今のこの現状に後悔はしないと思っています。
狭い世界しか知らず、その世界で心を折られ、それでも外へ出たらもっと大変で上をみたらキリがない、そんな世界を今は生きているのですが、私は私なので、最後まで生き抜こうと思っています。
私の描くものを、私の見て、感じた世界を、私は残して死んでゆきたいと思います。
さて、ここまで読んでくださってありがとうございました!
ニーフリ!もどうぞ、見てやってくださいね!!
心折られたって、立ち上がるよ。
そうして生きて、最期にバカだったなって、それでいいと私は思う。