鈴木祥子は頑固だ「夏はどこへ行った」(1986年 アルバム「VIRIDIAN」所収)
70年代から80年代にかけて、有望なミュージシャンの発掘育成はレコード会社にとって死活問題だったと思われるが、そんなミュージシャンを甲子園のようなイベント化で発掘・育成をしていたのは、ヤマハの“ポプコン”が最も有名であったと思う。もちろん他のレコード会社も独自のシステムでオーディションシステムを構築するなど、それぞれミュージシャンの発掘育成と売り出しを行っていた。
80年代中ごろから“ポプコン”で選ばれる楽曲は、世間の求める音楽とのズレが大きくなり失速していく。反対に台頭してきたのが尾崎豊、渡辺美里、大江千里、TMネットワークなどを輩出したソニー勢力であった。当時、ソニーのCDの帯には上に小さくそのミュージシャンのジャンルが刻印されていた。
さて、鈴木祥子のアルバムにはどう書いてあったか?そこには「ロック」と書いてあった。音楽のジャンルは案外厄介なもので、例えば今の耳で聞くと当時は「ロックミュージシャン」みたいな扱いだった尾崎豊も渡辺美里も、「ロック」というよりもJPOPという包括概念がぴったりだよなぁと聞こえてしまう(ちなみに尾崎はどっちかっつーとJPOP以前の「ニューミュージック」っぽく聞こえてしまった…)。それこそGershwinのラプソディーインブルーの方が、よっぽどロックとして耳に届く。
個人的には音楽ジャンルなんてものは科学的エビデンスはない分類作業という気がするので、レコード会社が「ロック」と書いているんだから「ロック」なんだろう。
皮肉はともかく、この曲。本人の独特のボーカルと松たか子の旦那・佐橋佳幸のギターサウンドが非常にのんびり牧歌的。作曲は鈴木祥子本人だが、作詞はデビューからしばらく鈴木の世界観を歌詞の面から補う川村真澄。
これが実によくわからない詞なのだ。音と相まって印象的なキーワードが耳に飛び込んでくるが、具体的なストーリーやそれに伴う心情は無く、物語としては破綻したまま曲は進む。この曲の詞は作詞家の川村が、鈴木が佐橋とともに作った音を聞いて、「列車に乗っているその瞬間をバーチャルリアリティ」として感覚した曲であろうと勝手に解釈している。
具体的なストーリーよりもその音楽のもつイメージを補強するものとして言葉が使われている。個人的にはこの曲、ストーリーとしては意味不明でも、感覚としては理解できる曲なのだ。
鈴木祥子が川村真澄に詞の提供を受けていたのは3枚目のアルバムまで。その後90年代に入ると鈴木自身が作詞を始めるとともに、歌詞は具体的なストーリーを結ぶようになり、音自体もごつごつとした手触りの「ロック」に相応しいものに変質していく。奇しくもソニーからドリカムがデビューして、具体的な「女子の物語」を「ブラックミュージック」を翻訳した音に載せて高らかに歌うようになり、型通りの「ロック」の時代は過ぎつつあったと思う。
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