“人のために”で自分を生かしていた
こんにちは。ここみです。
今日は、“人のために生きる”という、一見理想的な、だけど不健全な私の生き方について話したいと思います。
この間の肩書きのない自己紹介でも書きましたが、私は、人の好意によって生かされている面があります。
自分で自分の価値を見出して生きているのではなく、周りから感謝されたり、愛されたり、笑顔を受け取ることで、「私は“人から愛されているんだから”価値のある人間だ。」と初めて感じることができ、呼吸ができるようになる。そんな人間です。
側から見れば、ボランティアやクラスの行事の企画など、周りのために、周りを喜ばせるために何かをする私は、もしかしたら善人に見えていたかもしれません。
でも、今日恩師の言葉を聞くことで、私がいかに不健全な生き方をしていたかを感じました。
この言葉を聞いた時、自分の思考の癖の理由がスッと腑に落ちました。
自分の生活を切り詰めてまでひとの笑顔のために動くのは自分の価値をそこに見出しているから。そこで認められること=私が存在していること、であって、それが無ければ私の存在価値はほぼない。
この考え方は、奉仕中毒を生み出します。だって、何か良いことを人にして、感謝されるだけで、自分の価値を深く感じられて全身が幸福に包まれるのです。承認欲求も満たされます。
ただ、中毒という言葉を使ったように、これにはマイナス点もあります。人からの感謝は、長く続きません。人助けをして感謝をもらう。何かを手伝って笑顔をもらう。これらは一時的には私たちの心を満たしてくれますが、またいくらかするとその充足感は薄れていきます。また、人からの感謝や笑顔は、期待するより少ないこともあります。全力で行事の準備をしたのに不評。手伝ったら余計なお世話と怒られた。そんなこともあります。
そういう時、頑張ったこと、人のためにしたことは無駄だったのでしょうか?
私のこれまでの考え方だと、無駄でした。無駄、ほど強い否定ではないかもしれませんが、間違いなく私の善悪は、人が喜ぶかどうかによって決められていたと言えます。
このように、人のために生きるという、一見理想的な生き方は、解像度を上げて見れば、他人軸で生きていることに他なりません。いつも何かに追われていて、落ち着くと不安に駆られる。人の評価を求めて、ひたすら自己を削る。それに幸せを感じる。
同じような人がいるのではないか。と感じています。自己を確立した上での人助けは、悪になることはほとんどありませんが、人助けによって自己を確立すは、きっとどこかで、誰かを傷つけてしまう。求めてしまう。自信を失ってしまう。
もしこれを読んだあなたが、これに共感できたら、一緒に孤独に耐える練習をしたいなと思います。人からの肯定的な評価がなくても、自分を持っていられるように。
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