旅と旅人の記憶 ルンビニ
ずいぶん前の話になります。私はブッダの生誕地に行きたいと思い立ってネパール南部、国境付近のルンビニという街に向かっていました。その時私は1人でネパールをぶらぶらしていて、特に仏教徒というわけではないが、旅人おすすめのブッダの聖地はほとんどインド側だし、なんとなくインドを怖がって避けていた当時の私にとって、ネパールにあるブッダの生誕地は何か魅力的だったのです。
ローカルバスに乗ると3人ほど一人旅らしき旅人が乗っている。どうやらこの未舗装の道はネパールからインドへの入国ルートになっているらしく、汚い格好の私を見て彼らが同種への親しみを込めた視線を投げかける。旅人たちはみな、インド一人旅を前に独特の高揚と緊張を纏っていた。ところが私は彼らの期待に反して辺鄙な田舎町で下車するのだ。ローカルバスを乗り継いでネパール国内のルンビニに。バスターミナルもなければ英語表記もない中、運転手さんや乗客で唯一英語を喋る英語の先生、そんなたまたま居合わせた地元民達がバケツリレーのようにバスからバスへと、私を引率していく。そうして突然、私はルンビニに降り立った。
ブッダガヤとか、人気のブッダ聖地の話を旅人から聞いていた私は、ルンビニのあまりの田舎ぶりに驚いた。町や村は一切なくて、虚無の大きな道の脇には各国の寺が立派に、そして静かに立っていた。まだ道は未舗装だし、よく見たらお寺だって建設中が多くて、正確には建設中断中といった感じ。そしていざブッダの生誕地はというと、こちらはただただ一面の大草原。まるでブッダ生誕の時から時が止まってしまっているよう。そんな草原の中を、私はただ1人、歩いている。隅から隅へと、マーヤ夫人がぽろっとシッダールダ王子を産んじゃったエピソードを思いながら、ただただ歩いた。
ふと気がつくと遠くからこちらに歩いてくる旅人がいる。一人旅の韓国人と見当をつけて挨拶したら、何と相手は日本人でした。結果彼はルンビニで会った、僧侶・尼さん以外の唯一の人物でした。私は尼寺に、彼は韓国寺に滞在していた。韓国寺は食べ物が美味しいとの評判を聞いていたので、尼寺での暗くて貧相な晩餐を思い出して羨ましく思ったものでした。彼は勉強のためにドイツに行くところだと話してくれた。次の日私がバスに乗るのに、近くの町まで彼が見送ってくれた。そのまま私はバスに乗り込み、そして彼は静かに私を見送った。
ここからは私の勝手な想像だが、彼はきっとドイツで哲学を学び、今は日本で教鞭をとっている。またはドイツでエンジニアリングを学び、今もまだドイツで研究職についている。どちらにせよ、彼は今でもルンビニの空気を纏っているに違いない。そして私もあの異次元空間の空気をこっそりとスーツの下に隠している。彼の名前も忘れちゃったし、顔だった覚えていない。でもいつかきっと、世界のどこかの街で、あのルンビニの空気にすれ違う日が来る。私の密かな人生の楽しみ。