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こんな映画を観た①ー『パターソン』2017.ジム・ジャームッシュ

休職し始めてから、もう二週間が経ってしまった。

ここまで両手両足を暇にしているのは学生のとき以来だから、大体一年と八か月ぶりの解放感を味わっていることになる。

会社という場所はその日毎にやられければいけないことが明確に決まっていて、やけに一日を立体的に捉えていたように思う。「今日は何月何日の何曜日である」ということを念頭に置きながらせっせと仕事をこなしていくのは、なかなかに神経をすり減らす行為だった。

いまは、一日を立体的に捉える必要がまるでない。かと言って、一週間という纏まりも、なんとなく締まりのない集団のように思えて仕方がない。好きなテレビ番組も特にないので、今日が何曜日なのかなどと気にすることも全くない。ちょっとこのままでは不味いかもしれないと思い始めてきた。

ジム・ジャームッシュの新作『パターソン』は、とある夫婦の月曜日から翌週の月曜日までの一週間を一日ずつ丹念に描いていくという、日常に寄り添った極めて起伏の緩やかな映画だった。一日の始まりのシーンを、必ず二人がベッドで寝ている様子を真俯瞰のショットで迎えるように、彼らの生活はあまりにも平坦であるように思われる。

似たような毎日だけれど、実は違う。今日は昨日のコピーではなく、明日は今日の反復ではない。……この映画でジャームッシュが言いたいのは、結局のところそれに尽きるのだろう。だからワザとらしく一卵性双生児が登場するのだろうし、「このカーテンにプリントされている沢山の丸模様は、全部違う大きさなのよ」なんて台詞を用意してしまうのだろう。

映画を観進めていくうち、「複製」に対してある程度敏感になってくると、あれもこれも「複製」じゃないかと、妙に疑い深くなる病に陥る。例えば、終盤で披露される「翻訳」という行為はどうだろうか?紙に書いた詩をコピーするというのはどうか?それらは、一見して「似たようなものだけれど、実は違う」のではないだろうか?

映画の初めにはあまりに平坦だと思っていた作品が、終盤になるにつれて立体的になっていく。それは恐らく、劇中で描かれる一日が、次第に陰影を帯びてくるからに違いない。

平坦になっている毎日を、立体的に捉え直していきたいと思う。やらなければいけない仕事がない今、それは結構難しいことではある。勿論、毎日が同じことの繰り返しではないことくらい知っている。ジャームッシュに言われるまでもない。作って二日目のカレーの方が美味しい。それくらい、昨日と今日は違う。当たり前だ。だからこそ、厄介だ。

text by K.M